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17世紀フランスの世界史をおさらい。『ラ・ロシュフコー箴言集』との対話。

文字数:約2,710

ラ・ロシュフコーは、17世紀フランスの名門貴族です。17世紀のフランスと言えば、ルイ14世で知られるフランス絶対王政全盛期の時代です。豪華絢爛、太陽王の名にふさわしいヴェルサイユ宮殿がパリ郊外に建設された時期です。

ラ・ロシュフコーの箴言集に限りませんが、古典を読むには、当時の時代背景を学んでおく必要があると思っています。

今回は、17世紀フランスの世界史を自分なりにまとめ、その上でラ・ロシュフコーの思想にはどのような背景があるのか、考えてみました。


17世紀フランスの2つの敵対勢力について

当時のフランス王政は、大きく二つの敵と争っていました。一つがハプスブルク帝国とのヨーロッパの覇権争い。もう一つがフランス国内における貴族との勢力争いでした。

ハプスブルク家は、16世紀にカール5世が神聖ローマ帝国皇帝に君臨してから、ヨーロッパで最大の勢力、つまりハプスブルグ帝国を築き上げていました。フランスを東西から挟み込んでいるハプスブルク帝国は、当時のフランスにとってはまさに目の敵でした。

一方、フランス国内では誰が国を支配するのかという勢力争いが起きていました。中世ヨーロッパは封建社会であり、貴族(領主)に大きな支配権力が与えられていました。当時の世界観のイメージとしては、異世界転生ファンタジーアニメを思い浮かべるとわかりやすいです。支配される農民はのんびり暮らしていましたが、宮廷では貴族の支配欲が渦巻き、血みどろの勢力争いが起きていたのです。

宰相リシュリューによる三十年戦争の意味

17世紀、ルイ13世の頃より、王権と貴族勢力の衝突が激化していきました。ルイ13世の宰相として貴族の権力を押さえつける政治を始めたのが、リシュリューという貴族でした。当時は中央主権的というよりも各地の貴族によって勢力が分散しているような状態だったからです。

今やハプスブルク家のことが念頭にあるリシュリューは、分散的な国家ではなく絶対王政の国家を目指すべきだと考えていました。リシュリューはそのために、どんどん貴族たちを押さえ込んでいきました。貴族仲間への裏切りや抑圧、陰謀、王への絶対的な忠誠を果たすためあらゆる手段を使って政治をしていたのです。

リシュリューは国内の貴族と戦いながら、一方で最大にして最後の宗教戦争と言われる三十年戦争へ介入することになります。16世紀前半のルターによる宗教改革(カトリックvsプロテスタント)の流れを組む戦争ではありましたが、リシュリューにとっては、打倒ハプスブルク家のための戦争だったのです。

貴族たちは領主であり騎士なので、当然戦争には参加します。リシュリューの思惑を知りながらも、同じ敵と戦わないことには、国も危ういので参加せざるを得なかったのです。私はリシュリューの政治手腕の恐ろしさは、ハプスブルク家との戦争を行うと同時に国内の貴族達をバシバシとしばいていったことだと思います。

ラ・ロシュフコーも三十年戦争に参加しましたが、その間もリシュリューに痛い目に合わされます。リシュリューに敵視された仲間を救おうとした際、ラ・ロシュフコーの策謀がばれ、バスティーユ牢獄にぶち込まれ、8日後に釈放されたものの、郊外で2年間の謹慎処分を受けたのでした。

ルイ14世の誕生の背景

三十年戦争の最中にリシュリューは死んでしまいますが、その後任となったのは、マザランという人物です。マザランはもともと平民かつイタリア人でしたが、リシュリューに認められており宰相まで登りつめたのでした。

三十年戦争はウェストファリア条約にて終わったのですが、この講和条約に参加しなかったスペインとフランスはその後も戦い続ける必要がありました。戦争にはお金が必要ですが、リシュリューの意志を受け継いだ宰相マザランは打倒ハプスブルク家の野望を叶えるため、国内に課税をさらに強化し、中央集権化を進めたのでした。

ここで貴族は堪忍袋の尾が切れてしまいました。マザランのような平民あがりの宰相に既得権益を奪われることに耐えられなかったのです。フロイドの乱という貴族発信の王権に対する反乱が起こったのは、講和条約が結ばれたその年の出来事でした。

ラ・ロシュフコーは、はじめはマザラン側の味方をしていたようですが、やはりマザランも抜群の政治手腕で騙し騙され、次々と貴族を蹴散らしていきました。ラ・ロシュフコーは、マザランのなんでもありの態度に怒りを表し、マザラン反対派についたのでした。

しかし、マザランの政治的才覚は尋常ではありませんでした。貴族の対抗虚しく、完全に貴族勢力は押さえ込まれ、フロイドの乱は鎮火。さらにその後三十年戦争の継続戦争であるスペインとの戦もピレネー講和条約の締結によって終結。

ウェストファリア条約とピレネー条約でフランスが勝ち得た領土を考えれば、リシュリューとマザランの両宰相は、ハプスブルク家の勢力拡大を食い止めたと言えます。さらに国内に目を向ければ、貴族勢力は衰え、今や完全に中央集権がなされ絶対王政の礎が完成したのでした。

こうして誕生したのが、「朕は国家なり」太陽王ルイ14世だったのです。中田敦彦的に言えば、I am a nation. が完成したのでした。

ラ・ロシュフコーの箴言集の完成

その頃、貴族たちは何をしていたのでしょうか。言い換えればラ・ロシュフコーは何をしていたのでしょうか。

貴族たちは政治や武の世界から少し距離を起き、知的創造の場所に活動拠点を移したのでした。アカデミックな会話を楽しむ学びの場所、つまりサロンのことです。

貴婦人たちとのお上品な会話、どれだけ気の利いたことを言えるかの競い合いや知能くらべの世界に、貴族たちは次の居場所を見出していたのです。

激動の17世紀フランスを生き延びてきた貴族たちには、人間がどのような生き物であるのか、その本質を痛すぎるくらいに感じていました。

さて、このような深い人間観察から生まれたフランス文学作品が、辛辣で切れ味が鋭く、ブラックユーモアに溢れた古典、三島由紀夫に後味が悪いと言わせた作品、つまり「ラ・ロシュフコー箴言集」なのです。

ラ・ロシュフコー箴言集(岩波文庫)にはこう書いてあります。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。

『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫) 翻訳 二宮フサ

ラディカルな思想は本質を捉えることが多いと私は思います。そして、そのような思想は、例外なく激動の歴史の中から生まれてきたのだと感じています。なぜ私たちが歴史を学ぶのか、その一つの答えがここにはあるような気がするのです。

2020/05/31


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