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退屈を乗り越える方法について。神谷美恵子『生きがいについて』との対話。

文字数:約6,420

退屈に支配されているときの私の感情は、まるで何かに縛り付けられているみたいだ。ある一定の状態に止まろうとする抑止力であるかのように、もがけばもがくほど絡まっていく網のように。

もっと生産的なことを、自分にとって重大なことを成し遂げたいのに、何もすることがないと嘆く自分。私のやりたいこととは、一体全体、何なのでしょうか。果たして、そんなものは存在するのだろうかと、左右、上下を旋回しながら元の位置に戻ってくる感覚。

いわゆる自分探しは青少年にしか許されていないのでしょうか。そもそも、自分探しとは一体、何なのだろう。

ああ、暇だなあ、思わず口から溢れ出てしまう言葉が少しだけこの感情を和らげてくれるのは皮肉というやつじゃないだろうか。

私たちはふとした瞬間に、あるいはじっとしている時、倦怠感に襲われ、虚無感に苛まれる。退屈が私たちをコントロールしているのでしょう。

さあ、今日は何をして暇を潰そうか。ところで、暇を潰したところで、その先にも暇は次々と生まれてくるから、彼らとの戦いにはキリがないのだけれど。さあ、どうしようか。

間暇を乗り越えたその先。暇であって暇ではない時間の過ごし方。どうしたら、この愛すべき退屈を克服することができるのだろうか。もしくは彼らの存在を全く正反対に転換し、悪を善に、無意味を有意義に変身させるにはどのような心構えが必要であるか。

人々はそれを生きがいとか、やりがいとかいう言葉で形容しているのではないかと私は思う。ではどうすれば、私たちはそのような力を獲得できるのだろう。そのヒントを神谷美恵子の「生きがいについて」を読みながら考えているところです。

20世紀に活躍した神谷美恵子は精神科医として、また思想家や作家として、生きがいを失った人々と向き合い続けました。彼女はハンセン病患者と語り合うことで、一般社会から隔絶された人間の思考と傾向を分析し、それから人類全般に思いを馳せています。

私たちは飽和した資本主義社会に生きています。つまり、神谷美恵子の言葉を借りれば経済的・物質的に豊かになった世の中です。そのような世界で私たちは暇つぶしを探し求めている。

それもこれも私たちが恵まれているという事実なのだろうと私は思います。ふと冷静に考えれば、誰でも感じられると思うのですが、少なくとも心身ともに健康な日本人は、それだけで非常に幸運なのです。

変化のない日常を、静かな心持ちで穏やかに日々を繰り返すことのできる幸せを、抱きしめ味わい噛みしめることができれば、なんと健全なのだろう。朝起きてから夜眠るまで、その一日にこそ価値があると思えることは、なんて素敵なことなのだろう。

しかし、人間は貪欲なのです。欲望こそ人間の証明であり、欲望とは現状に満足することではなく、現状に不足していると感じることです。

人生は他者との競争ではありませんが、これを取り違えたとき、私たちは足元の確かにそこにあるものではなく、自分以上の何か遠くにある大きなもの、何か掴み所のない目標物に向かい、精一杯にその小さな手を伸ばそうとする。

ここから、少しだけ嫌味な世間の見方をしますので、どうかご了承ください。

私たちは他者との比較をすることで、安上がりで簡単に幸福と不幸の代替物を見いだすことができます。

例えば、自分よりも下の位置に存在する人間を無理矢理に作り上げることで優越感を味わうことができるでしょう。そのような存在に対して、彼らを嘲り傲慢になり、私は彼らよりはましだと自己正当化できるのです。他人に羨ましいと思われたい、他者への承認欲求も対して変わりはありません。

例えば、自分よりも上の世界で暮らす人間を、各自の空想の中でこねくりあげることで、私たちは簡単に劣等感に浸ることができるでしょう。嫉妬して羨望して、なぜ私は彼らと比べて外見も経済力も劣っているのか、そう卑屈になって憂鬱になって、そして自分は不幸だと思い込むこと。

少なくとも日本において、資本主義社会という宗教を信じる私たちは、幸福と不幸のモノサシを、そのようにあらゆる外部から教え込まれてきたにすぎないではないでしょうか。

しかしながら、私たちは何気ない日常を繰り返して行く過程で、成長し年齢を重ねていく人生の流れの中で、嫌が応にも外部に対して社会的な責任というものが発生してきます。他者との関係性もある程度は構築されてきて、経済的にも社会的にも、その安定性を世間から求められるのです。

だから、わざわざ幸福とか不幸とか人間の存在意義とか、そのような思春期の青年が考え悩んでいるような、ツンと鼻を刺すような、腐乱臭のする思想を、大人になっても真面目に考える人はあんまりいない。

精神はもちろん、誰にでも備わっているが、順境の人はその有難味をよく知らず、その力によりかかる必要もあまり痛切には感じない。日常の生活は多くの用事で満ちているし、その用事を次々と、着実に片付けて行くためには、「常識」とか「実際的思考力」などという名の、多分に反射的、機械的な知能の処理能力さえあればすむ。あまりにゆたかな想像力や飽くなき探究心や厳しい内省の類は、むしろ邪魔になるくらいであろう。

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

私たちは、私たちが暮らす社会の習慣にならい、普通に健康に生活をすることを目的としている。極端な変化を嫌い、ある程度の安定をのぞむ。

その中で、ある一定の割合の少数は、自己を高めようと何事かを成し遂げるためにあくせく努力をしています。一方でまた大部分の人々は、そのような光り輝く成果を上げた人間を褒め称えて、かつ嫉妬をしていますが、自分はこれでいいのだ、とマイペースにスローライフを望んでいます。

私たちは、忙しく活動をすること自体を目的としているのではないでしょうか。なぜなら退屈とは耐えられない苦しみだからです。何かの行動をしていなければ、自分に耐えることができない。

人間とはむなしい存在である。そのようにパスカルは彼のパンセの中に綴っていました。手に入らないものを欲しいと思う感情こそ人間の証なのです。

大部分の心身健康な人は、現実の世界にしっかりと足を踏まえ、そこで忙しい、充実した毎日を送る。精神の世界はもちろん存在するけれども、それはふつう現実の生活に対して従属的な位置を取る。認識や思索の世界は現実の中で能率よく、効率的に生きて行くための手段として存在し、芸術や美の世界は現実の生活を楽しく送り、ゆたかに味わうためにある。宗教の世界も現実の生をなるべく悩み少なく、平らかな心で過ごすため、そして死を平静に迎え入れるための助けとして副次的な位置を取ることが多い。必要に応じてそれぞれの精神の領域に出入りはするけれども、全てほどほどにとどめ、現実の生活のバランスを崩さぬように気をつける。それほど現実の生活は大部分の人にとって、厳しく、忙しい。もともと精神的な欲求それ自体に乏しい人もあるが、かなりの人はこうした厳しい、忙しい生活のために追われて、精神的なものの芽を伸ばす機会もなく、必要もない。

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

また、そのような世間をまるで自分が神様にでもなったかのごとく勘違いをして、斜めうえから見下す奇妙な人間も同時に存在します。彼らは世間をくだらないと一蹴して、厭世的な態度を取ることを生業としています。

世界・社会・世間・他人、あらゆる外部を批判することは、なんでこんなにも簡単なのでしょうか。決めつけることは諦めることよりも、なんて容易いのでしょうか。

私たちは誰でも例外なく自己愛と虚栄心と自惚れを持っている。そのようにラ・ロシュフコーは人間を分析していました。だから私たちはこんなにもおしゃべりになるのでしょうか。

神谷美恵子の「生きがいについて」を読むことは、自分自身を内省することだと私は思うのです。それは退屈だと感じた人生に対して、その思い込みに立ち向かい、180度の急旋回を試みることではないでしょうか。

上にも書きましたが、私は今のままで十分に満ち足りているほど、確かに幸運ではあります。少なくとも私は健康で、重大な病気にもかかったことがなく、両親にも恵まれて、日本の社会的にはまあそこそこの大学を出て、しっかりと務める場所もあります。

運命というものは、人間が判断できることではない。天に関する懸命な判断は何も判断しないことである。そのようにソクラテスは言っていました。

この本ではハンセン病に焦点が当てられ、彼らの「生きがいについて」が述べられています。彼らの精神状態や生きがい喪失の世界を覗くことは勇気が要るのですが、その実感はできなくても、それでも想像することは私にはできる。想像をするという行為は誰にでも許されている。

底知れぬ虚しさは、しかし、らいにかかって島に閉じ込められている人に限ったことであろうか。否、本当は、人生そのものに内在しているものである。そのことを私たちはあの生きがい喪失者の世界でつぶさに見て来た。私たちは幸か不幸か現世の中で自分の居どころを与えられ、毎日の勤めや責任を負わされ、人や物事から一応必要とされて忙しく暮らしており、そのおかげでこの虚無を、この「空」を、なんとか浅くまぎらしている。どうして私たちではなく、彼らが、何一つまぎらすものもなく、はだかのままで毎日この恐ろしい虚無と顔を付き合わせていなくてはならないのであろうか。

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

ハンセン病は現在の医療では克服できる病気なのですが、当時はその手段がなかったようです。その病にかかると人間の肉体は顔も形も変容します。

外見の美しさという概念は消え去り、一般社会で生きることはできなくなります。またその外見や感染の恐怖が理由で、社会からは差別され隔絶されてきたのです。

彼らに残されたのは精神力だけであった。そう神谷美恵子は描いていました。苦しみと悲しみ、奥深くの最果て。そのような境地に位置する人間は、果たして人間としての尊厳は保たれるのかという問いかけ。

また、このことは死を宣告された死刑囚やガンの患者にも同じことが言えます。彼らにとっては、外部に対する意味が減少していき、内部に対する意味付けが強みを増す。今まで人生で培ってきたような、重要だと思われていた概念が覆されていく。

その過程で、ある人々は人生を投げ出したいという絶望に陥る。また、ある人々は自己を克服し、内的な精神世界に生きる。全てを受け入れた凪のように、静かに平和に穏やかに佇むように。

この本の解説で柳田邦男も指摘していることなのですが、ここに重大な問いかけが隠されていると私は思います。つまり、人間はそのような運命を経なければ、精神的な「切迫感」を感じて、世界の真実を求めるような、自己を乗り越えるような生き方はできないのだろうか、という問いかけです。

私は、決してそんなことはないと考えます。なぜなら、私たちは考えることができるからです。

人間の尊厳は考えることの中にある。そのようにパスカルは信仰心を語りました。考える人が増えれば世の中は限りなく平和になる。そのようにヒルティは愛をささやきました。

モンテーニュも言っておりましたが、人間はどこまでいっても人間なのです。つまり、本質として私たちには差異はないことになります。

そもそも健全者と障害者という概念の枠組みは、少なくとも日本の法律が示すところによれば、あくまで社会的な規則に基づく大多数の人々のシステムを合理的に優先した結果の区分けであり、それ以上でもそれ以下でもありません。その法律を補完するシステムがバリアフリーなのです。

また、同じようなことが他のあらゆる社会的な区別にも言えるでしょう。人種の差別、貧富の差、社会的な地位と評判の有無、いじめる人といじめられる人、イケメンや可愛い美人とブサイクの差異、真面目と不真面目、賢いと頭が悪い、弱者と強者、管理者と管理される者。

これらほとんど全ての外部に現れる差異は、事実ではあるが本質ではないのではないでしょうか。つまり、これらは単なる古くから連綿と続く習慣や風習の結果、社会通念と社会規則、運命が与えてくれた偶然と必然ではありますが、それ以上でもそれ以下でもないのではないでしょうか。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場から見たら存在理由があるに違いない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられない人、他人の眼にも認められないような人でも、私たちと同じ生を受けた同胞なのである。

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

そもそも宇宙の中で、人類の生存とはそれほど重要なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物の中で「霊長」と考えることからしてすでに滑稽な思い上がりではなかろうか。現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内には見出しえず、「他者」の中にのみ見出したものではなかったか。五体満足の私たちと病み衰えた者との間に、どれだけの違いがあるというのだろう。

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

だから、そのような意味でストア派の賢人が説いたことは本質であると私は思います。つまりこれら外部に存在することは幸福でも不幸でもなく、何でもないものであり、自己の内部に存在するものにこそ、幸福とか不幸があり重要なことである、という概念です。

神谷美恵子もこの本の中で指摘をしていましたが、いつの時代になってもストア派が語るような精神の強さは、大抵の不幸を乗り越える力であると私は感じています。

なぜなら、渋沢栄一も話していたように大体の場合には逆境とは存在しないからだと私は思うからです。事実に意味をつけるのは各自の領分であり仕事であるとはっきり感じるからです。であれば、その意味づけを工夫することで、悪いと思い込んでいた事柄を良いものに変身させることもできるのではないでしょうか。

この本で神谷美恵子は、生きがいとは何であるか、ということについては具体的には述べていませんが、私たちの心のあり方について、その可能性を示唆しています。

生きがいの源泉とは何であるか。神谷美恵子は、それを「自然の中で自然に生きる喜び」だとか「自ら労して創造する喜び」、「自己実現の可能性」などと表現していました。

大自然を眺めているときに、澄み渡った青空を見つめているそのときに、ふと自分がそこにいることを発見できるよろこび。大芸術と向き合って、人類の叡智に思いを馳せることのできるよろこび。

ショーペンハウアーは、これらを客観的な関心のために使用される知性であり、客観的な世界の驚くべき彩りを感じるために必要だと言っていました。またそれらは個人的な目的のために使用される主観的な関心にのみ向けられるような知性ではないとも皮肉たっぷりに話していました。

行動することではじめて創造力が生まれてくる。人間とは本質的には快楽を求めるのではなく、労苦を求める。自分の意志が生み出した労苦の結果が幸福である。人は自分が作り出す運命を幸福と呼ぶ。つまり幸福とは行動の副産物であるとアランは力強く宣言をしていました。

そのような意味で、退屈とは、ある種のトリガーなのかもしれません。退屈とは、私のこの重たい一歩を、少しだけ前に進めさせてくれる勇気の源泉なのかもしれません。

ああ、暇だなあ、退屈だなあ。そのように言葉が漏れてしまったときには、それを与えてくれた環境と境遇、それから運命というやつにまずは感謝を述べようじゃないか。

きっといつか、退屈を抱きしめてあげられるときがやって来ることを信じながら。

きっといつか、弱い自分を認められる日が来ることを確信しながら。

2020/12/29

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