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孤独の意味を分解し、再構築しよう。三木清『人生論ノート』との対話。

文字数:約5,230

早速で申し訳ないが、今は三木清の『人生論ノート』に取り組んでいる。今回は、この書物のうち孤独というパワーワードにフォーカスを当て、どのようにそれらの考えを私生活に落とし込もうかと、自らの内面をぐっと見つめながら私なりにまとめようと思う。

過去、幾度も同じようなことを記録しているような気がするし、実際にそうなのだが、「孤独」とは大抵の場合には悪いニュアンスで語られがちなのだろうと思う。そこににじみ出る観念は、寂しさ、孤立、不安、悲しさ、退屈さ、倦怠感などであり、そのうち特に強調すべきは暇な気持ちから派生する様々なネガティブな感情である。

なぜ「孤独」が悪い意味として世間で語られがちであるか。一つの理由は、それでは私たちは「暇」になるからである。「ああ、退屈だなあ」、「何か面白いことはないかなあ」と。おそらくはこれは悪魔的なものの見方であり、否定されるべき邪悪で危険なニヒリズム的思想であるとは思うが、世に溢れる娯楽の数々はこれらの「暇」とそこから自然派生するネガティブな感情に耐えられない人々に対する商売とも捉えられる。

彼らに娯楽を提供する。すると彼らはそれらに没頭できる。物事に没頭できているうちは私たちは「暇」を感じることはない。「暇」を感じることがなければ、そこから発生する不安感を抱くこともなくなる。ただ、娯楽は継続的な商品ではなく、いわばスポット的な商品でもある。もちろんその商品を買い続ければ限りなく持続可能性を与えられるもののその本質は断続的である。

ただし、あえて強調して語るべきではあるが、娯楽そのものは決して悪いものではないとも私は思う。なぜなら、そのようなものの見方は単なる懐疑に次ぐ懐疑、否定に次ぐ否定であり、そこから溢れ出る雰囲気は、陰険さ、暗さ、人付き合いの悪さだからである。いわば童貞的思考には決して勝ち目は訪れない。そもそもこれらは勝ち負けではないのであるが、それでも童貞諸君は強烈な嫉妬心から周りのきらびやかな世界を貶めるように眺める。

私たちは人々の趣味をそれが法律的に合法である限りにおいて決して頭ごなしに否定してはならないし、そのような神様的判断能力は私たちには備わっていない。「彼らは暇だから、何々に勤しんでいる」。このロジックはある意味では正しくある意味では決定的に間違っている。たしかに私たちは「暇」に耐えられないからこそ適当に時間を潰すべくそれらの商品を買ってみようとはするだろう。たしかにそのような側面も否定できないし、商売の本質は時間をいただきお金に変える、あるいは時間を与えお金に変えることである。

しかし、彼らがそれをしたいと思う気持ち、そこに楽しさを見出す過程、趣味趣向としての各々の性向、これらの娯楽への動機は、否定されるべきものではなくむしろ肯定されるべきものである。当事者側からすればこれらの趣味に関する外部からの否定なる意見は余計なお世話であり、むしろ害毒でしかない。そもそも論として、私たちは他者の内面までをも完全に把握することは不可能である。他者に対して、まるでこちら側に正義があるかのように決めつけ、そのあまりにも個人的な正義の枠内から少しでも外れた人間を批判する行為は自惚れ以外のなにものでもないのである。

現実問題として、たしかに「孤独」であることが理由で苦しんでいる人々がいることは事実ではあるだろう。他者との関わりの希薄さが原因で病気になってしまう可能性も否定はできない。「孤独」とは、ある側面からその言葉の概念を観察すれば決して良いものではないのであり、志向すべきものであるとも言えないだろう。しかしながら、それはとある一つの側面からの観察にすぎず、また別の側面から観察したとき、つまりは外部的世界に対して「孤独」を観察するのではなく、内面的世界にその焦点を変え「孤独」という言葉を観察したとき、その風味はガラリと変わってくるものだろうとも私は思う。

三木清はこのように述べている。

すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 虚栄について

孤独とは自分自身を見つめる行為にほかならないと私は分析している。この場合の孤独は、上述した「孤独」の見方とはまったく異なる結果を示す。まず、この行為においては私たちは暇を感じることは少ない。むしろ「暇」とはなんであるかを観察し始めるからである。「暇」とは何かを考察していることは私たちが暇に絡め取られていないことの証明となる。従って、そこから派生する倦怠感を抱くことも少ない。

なぜなら、ここでもまた私たちは私たちが抱いている「倦怠感」の根っこには何が原因として眠っているのかと、自らの感情そのものを俯瞰的に観察するようになるからである。ある意味では内面的省察は、外面的省察に等しい。自らの感情をも外部的と捉えることができれば、私たちの精神はその知性を輝かすことができ、この世界の代理人たる原因と結果の因果律に基づいて自身の知恵を向上させることができるはずである。

三木清は、この点についてはこう言っている。

懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現している。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 懐疑について

懐疑的態度は他者に向けることよりも自己に向けることの方がいっそう好ましい。「精神のオートマティズム」とは、各々の習慣によって作り出される精神の傾向性ともいうべきものである。言い換えれば、当たり前や常識といった概念を当たり前や常識だと意識することなしに認識している感覚のことである。他者に向かう懐疑的態度とは、どちらかと言えば「精神のオートマティズム」に基づいている可能性が高い。なぜなら、彼らには自身の当たり前を否定するだけの力が欠けているからであり、この懐疑的態度を自己に向けることなど思いもよらないからである。

孤独とは知性に属している。三木清はこのようにも述べていた。

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情ではなく知性に属するのでなければならぬ。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 孤独について

私たちの多くは「孤独」という言葉に出会ったとき、外の世界から眺められる自分自身、つまりは他者の目線から見た自分自身を想像しがちだが、正しくは自分自身のうちから自分自身を眺めなければならない。前者の場合、その意見は私たちのものではない可能性が高い。外面というものはたしかにある意味では整えるべき大事なものではあるものの、各々の意見そのものについてはその責任を外部的判断に押し付けるべきではない。

後者の場合、その意見は私たちのものにほかならない。内面的世界の観察における意見は、個人個人の意見であると言わずなんと言えばよいのだろう。この観点において「孤独」を考察すると、私たちは大衆の中にあっても孤独であることができるし、むしろそのような中でこそ孤独は輝くことを知る。逆に私たちは一人のときにでも孤独を実感できないこともあり得る。つまり孤独には外部的環境はあまり関係がないのである。

私たちは「孤独」という言葉を分解し、自分なりに再構築しなければならない。それこそが私たち自身の生み出した本当の意見であり、それこそが私たちの存在理由なのだから。個性とは意識的に自ら掴み取るものであり、自然に生まれるものではあり得ない。もし個性が自然に生まれる感情であるとするのであれば、未来の私たちは科学の技術によって無際限に幸福になれるのであろうが、もはやそこには人間の尊厳は皆無であり、我々が存在すべき理由も残念ながら存在し得ない。

物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 孤独について

嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自身は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 嫉妬について

NHK 100分de名著の『人生論ノート』の解説で岸見一郎は、エキセントリックという言葉にフォーカスを当て、このようにおっしゃっていた。

エクセントリックに生きるというのは、自然に定められている(と思っていたということですが)中心から離れて、「人間が主体的にその存在論的中心ともいうべきものを定立しなければならぬということ、またこれを定立する自由を有する」(三木清『シェストフ的不安について』)という意味です。

岸見一郎 NHK「100分de名著」ブックス 三木清 人生論ノート

上述したような孤独に対する態度は世間的に見れば「エキセントリック」に映る可能性が高い。この意味の「エキセントリック」とは、辞書の通り奇抜で変わり者というニュアンスである。たしかに彼らは奇抜で変わり者に違いがないのであろう。なぜならば、彼らは個性的であり孤独であり、あまりにも人間的だからである。

個性とはすなわちユニークさにほかならない。ユニークであるものは「エキセントリック」でなくてなんであろうか。ここでもまた三木清は言葉の意味を自らの頭脳で、あるいは偉人の肩の上に乗りながら再構築しているのである。もはや一見すれば悪いニュアンスのこの言葉は、より高次の良いニュアンスへと昇華させられた。むしろ真っ当な人間であれば、「孤独」であり「エキセントリック」でなければいけないといったように強めの口調で描かれているほどである。

ところで、私は詩はずるいと思う。これらの概念の一切合切をその一曲に詰め込み、それらのニュアンスを人々に伝えることができるからである。

私たちはエキセントリックでいいし、変わり者でもいい。普通じゃなくたって構わないし、理解されなくても構わない。私たちは本質的に個性的であり、それは当然のことだからである。

とはいえ「僕はほかの人とは違うんだ!」というセリフにはあまりにも青春くささというか青臭さが残っているのはなぜだろうか?私は賭けてもいいが、私たちの誰もが私たち自身を個性的だと思っているのであり、あるいは忙しさからそれらを忘れているとしても少なくともそう思えるのである。要するにそこには他者を貶めようとする虚栄心がまだ幅をきかせているからである。

批判を向ける対象が具体的であれば、私たちは真っ向から彼らと戦い、どちらがより正しいかを争うこともできるであろう。これは卑怯ではなく勇気の証明となる。しかし現代社会では批判の向けられる対象は大抵の場合には抽象的である。彼らとは正直言って戦いようがない。なぜなら彼らには実態がないからである。ここに我々の虚栄心はつけこむ。

「僕はほかの人とは違うんだ!」というセリフの問題点は、否定を向ける対象があまりにも曖昧なのである。つまりは「ほかの人」とは具体的に誰であるかが問題なのである。「普通」とは具体的に何を示すのか?「変わり者」とは具体的に何に対して変わっているから変わり者なのか?私たちの虚栄心はこの手の曖昧さが大好物である。

貶める対象を生み出すこと自体は悪くはない。なぜなら、虚栄心自体は我々の誰もが保有する自然な感情なのだから。しかしながら、それを声高に叫ぶことは悪いことである。なぜなら、それでは我々の知性が感情に支配されていることを、つまりは自らの未熟さを世に公表しているに等しいからであり、まだ自分自身と向き合えていない、要するに孤独になれていないからである。

この手の哲学は、若者を最悪の方向性に導く危険性がある。知恵を習得したと自惚れた若者どもはしたり顔をして話す。その目的は虚栄心を知ることであるのにも関わらず、彼らはその一歩手前で虚栄心に絡め取られているに過ぎないのだ。自惚れこそ、我々の最大の敵であり、最大の友である。

いかにして虚栄をなくすことができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実存性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。

三木清『人生論ノート』(新潮文庫) 嫉妬について

私たちが行うべきは、言葉の再定義である。あらゆるものが曖昧になってしまったこの世界で、私たちは私たち自身を守らなければならない。曖昧さに屈してはならない。繰り返すが、曖昧さは自惚れの獲物である。

2023/10/22


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