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寝ることは世界に平和をもたらす。その背景について。アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』、岸見一郎/古賀史健『嫌われる勇気』および『幸せになる勇気』との対話。

文字数:約6,780

良書と呼ばれる本は、ある共通した一つの特徴を持っていると私は思う。もちろん、良書が良書たるゆえんはそれ以外にもたくさんあるのだろうし、これは私の個人的な体感でしかないから、その程度に聞き流していただいて結構なのだが、良書とはその本を読んだタイミングによって、響いてくるメッセージが七色に変化する書物である。過去の自分と現在の自分が異なるように、過去に読んだ書物でも、再度改めて読み直せば、その文字列から読み取れるメッセージは、自分を取り囲む環境の変化に伴い、色々に様変わりして見えるものだ。

まるで退屈な暗記科目のように読書という行為と向き合うのであれば、そこに記された内容は、自身の内面にまで落とし込まれたメッセージとして立ち現れるというよりも、知識だとか教養だとかと呼ばれるいわば情報源としてのみ認識されるはずである。その場合には、それらの情報が自分自身にとってどのような意味を持つのかというよりも、その情報自体にこそ価値が見出されるがゆえに、その情報は過去の自分が見ようが、今の自分が見ようが、その姿形に変化は見出せない。というかむしろ、それらは1+1=2のような模範解答としての事実に価値を置いているが為に、「いいくにつくろう鎌倉幕府」から「いいはこつくろう鎌倉幕府」のような知識の改訂が起こらない限りは、同じであるべき、とも言える。

どちらが良く、どちらが悪いという話ではない。情報源としての読書は、即効性のある情報が得られるし、そのような書物、あるいは書物に対する態度は、実生活やビジネスの現場で即戦力的に使用することができるだろう。この場合、数年前に得た情報が現在でも有効であるのであれば、再度、各々の書斎からそれらの情報を取り出してみても、その様相には過去から大きな変化はないはずである。そこには古いか新しいか、まだ有効であるか、もう有効ではないか、という価値判断しか起こらないはずである。

とはいえ、私たちの多くは、単なる情報源としての読書というよりも、そこから何らかのメッセージを読み取りたいが為に読書をしているはずであり(と私は思うが、実際はどうなのだろう?)、そのような十人十色な能動性と問題意識のゆえに、各々にとっての鮮やかな印象が形成されるのである。そして、その印象は、過去と現在とでは、過去との問題意識が等しく変わらない限りには(しかし、そのようなことはあまりないとは思うが)、変化して当然とも言える。

また、「良書」という表現もよくないとは思う。その主語ははっきりとさせておくべきだと思うからである。それらの本は、「私」にとっての「良書」なのであり、万人にとっての良書であるかどうかまでは、私には判断する権限はあるはずもないからである(そもそも、そのような読むことを強制された書物、あるいは逆に読んではならないことが強制された禁書が存在する世界からは、ディストピアの臭いが立ち込めている)。「私」にとってはその書物から、生活に対する何らかの指針となりうるメッセージが立ち現れてきたからこそ、それらは「私」にとっての「良書」なのである。そして、それらメッセージは、読む度ごとに、まるで初めて取り組む書物かのように、新鮮な印象として湧き出てくるのである。


さて、冗長な前置きが長くなってしまい申し訳ないが、今はアドラー心理学について、三年ぶりに取り組んでいるのだが、やはりその印象はあまりにも新鮮なのである(とはいえ、3年前には岸見一郎と古賀史健の『嫌われる勇気』を読んだだけであり、今回は『嫌われる勇気』に加えて、その続編である『幸せになる勇気』と、アルフレッド・アドラーの『人生の意味の心理学』と岸見一郎によるNHK100分de名著の『アドラー人生の意味の心理学〜変わらない?変わりたくない?』の四冊に取り組んだのであり、『嫌われる勇気』以外は初めて読んだのだが、どうか細かいことは気にしないで欲しい、笑)。


これは、アドラーというよりも岸見一郎としての解釈なのかもしれないが、人間の平等性に関して、ここまで清々しく語られることはあまりないと思う。一見すれば、自明の理のようにも聞こえるが、私たちの多くは様々な外部的な構造によって、それらの理に蓋をしているのかもしれない。まるで、今ではどぎつく塗りたくられた、元々は真っ白だったはずのキャンバスみたいに。

アドラー心理学の特徴は、あらゆる対人関係は「縦」ではなく「横」の関係にあり、人と人とは対等であると考える点にあります。

岸見一郎『NHK「100分de名著」ブックス アドラー人生の意味の心理学〜変われない?変わりたくない?』(NHK出版)

哲人 われわれは誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。

岸見一郎 / 古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)
※太文字は原文のまま

哲人 たしかに、年長者を敬うことは大切でしょう。会社組織であれば、職責の違いは当然あります。誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではありません。そうではなく、意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。
青年 目上の人に生意気な意見をぶつけるだなんて、わたしにはできませんし、やろうとも思いませんね。そんなことをしたら社会常識を疑われます。
哲人 目上とはなんですか?なにが生意気な意見なのですか?場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為です。

岸見一郎 / 古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)
※太文字は原文のまま

私たちは誰もが対等である。それが親子間の関係であろうと、職場での上司部下の関係であろうと関係なく。また当然、保有する富の違いや、社会的ステータスの違い、容姿の違い、人種の違い、性別の違いなどもまったく関係なく。私たち人間は、その全員が対等な関係である。確かにその通りだとは思いつつも、私たちの感情はそうあることを嫌がる傾向性を保有している。

私たちが内面で抱える闇は、他者との比較を志向する傾向性があることを私は否定できない。しかしながら、もしも仮に人類が対等ではなく、そこには何かしらの優劣が初めから決定づけられているのだとすれば、私たちの人生の意味は、私たちのほとんどにとってはもはや絶望的である。もしも仮に人生の意味なるものが、何かしらの構造の影響を受けながら生まれた瞬間から決定されているのであれば、そこには希望の欠けらも存在しない。

人生には初めから何も意味付けはなされていないという意味で、人生には意味など無いのであり、したがって私たちは誰もが本質的に対等の関係性にある。私たちの傾向性がその真理を歪めているだけなのであり、それら自分自身の傾向性に光を当てられれば、世界はその青空を取り戻すはずである。それははたから見れば綺麗事であり、理想論なのかもしれないが、それでもこの人間の対等性とそれに反抗しようとする人間の傾向性について、もし私たちが凛とした態度を持ち続けたいのであれば、何かしらの断固たる決意を抱かなければならないのかもしれない。

この対等性については、三年前に『嫌われる勇気』を読んだときには、私は気にも止めなかったが、いまこうして読み返すとアドラーと岸見一郎と古賀史健が語る対等性というメッセージがぐっと迫ってくるようである。私自身、子供ができたという変化も、これらの気づきの大きな要因の一つなのかもしれない。

とはいえ、この「対等」という言葉は諸刃の剣でもある。一歩間違えば、それは私たち自身に致命傷を与えるくらいには危険な思想である。「私たちはみんな平等だよね。だから何を言っても問題ないはずだし、何をしても問題ないはずだよね。だって、あなた方と私には何の優劣もないわけだから」。もしも対等性に関して、このような鋭く尖った槍のようなニュアンスの意見が瞬間的にでも湧き上がってくるのであれば、そのような意見は是が非でも塞きとめるべきであり、何が何でも自身の饒舌をその気高き沈黙でねじ伏せるべきである。

「対等」や「平等」という概念は、各々を様々な差別的考えから守るための盾ではない。それらの言葉は、受動的態度とは相性が悪いのである。このように申し上げれば色々な方から批判を受けるのかもしれないが、人々は差別を嫌っているようで、実際にはそれらを欲する傾向性があるのだと私は分析している。

私たちはどこからともなく、人間の「尊厳」「自由」「平等」といった耳ざわりのよい言葉を引っ張り出してきては、自身の傾向性を外部に発露させてしまった者に対して、あるいはメディアで報告されているとある感情を喚起する大げさに一般化された事象に対して、それらの言葉の盾を敵前に構えながら、もう一方の手には攻撃的な槍や剣を持ち、興奮しながら批判的態度に自らを託すのである。差別に対する差別がさらに高度な差別であるように、いじめに対するいじめがもっと厄介ないじめであるように、攻撃に対する攻撃は物事を平和的な解決には導かないとしたものである。

したがって「対等」という言葉には、主体的で能動的な態度が求められている。他者を傷つけうる危険性を重々承知の上で、それらの対等性を自らが噛みしめながら、慎重かつ誠実に、他者に働きかけるべきものである。アドラーはそのような対等性への条件、あるいは対になる概念として「共同体感覚」という言葉を提唱した。

少し長めにアドラーの言葉を引用したい。

これは、おそらく多くの人にとって、新しい視点である。そして、人生の意味は、本当に貢献、他者への関心と協力であるということが正しいのかどうか疑うかもしれない。次のように問うかもしれない。「でも個人はどうなるのだ。もしもいつも他者のことを考え、他者の利益のために自分を捧げたら、きっと自分の個性を損なうのではないか。まず何よりも自分自身の利益を守ったり、あるいは、自分自身の個性を強化することを学ぶべき人もいるのではないか」
私はこのような見方は間違いであり、それが提示する問題は虚偽の問題である、と思う。もしも人が人生に与える意味づけにおいて貢献したいのであれば、そして、感情のすべてがこの目標へと向けられれば、人が貢献することを最善の仕方で可能にするように必ず発達するのは当然である。

アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ) 翻訳 岸見一郎
第一章「人生の意味」「共同体感覚」より引用

しかし、人生の課題はすべてそれが解決されるためには、協力する能力を必要とするのである。あらゆる課題は、人間社会の枠組みの中で、人間の幸福を促進する仕方で克服されなければならない。人生の意味は貢献である、と理解する人だけが、勇気と成功の好機を持って、困難に対処することができる。
(中略)
もしも、人生がこのような仕方で、即ち、自立した人間の協力としてアプローチされたら、人間の文明の進歩には限界はない。

アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ) 翻訳 岸見一郎
第一章「人生の意味」「協力を学ぶことの重要性」より引用

「共同体感覚」とは、要するに他者に対する「思いやり」だとか「やさしさ」である。「人生の意味は(他者)貢献である」、とアドラーは言う。上述した「対等」という言葉の箇所でも同じようなことを申し上げたが、いわゆる「思いやり」や「やさしさ」に関して、ここまではっきりと表明された言説も珍しいと私は思う。

おそらくこのようなあからさまな言説に対しては、反発する意見も多かったのだろう。確かに、真正面から「人生の意味は愛することです」、なんて言われた日には、身体中がムズムズと痒くなるに違いがない。しかしながら、確かにそれらは真理なのだろうとも私は思うのである。

勉強をして、仕事も覚え、お金も地位も名誉もそれなりに獲得し、年齢を重ねたとしても、もしも彼らに「やさしさ」が欠けていれば、私たちは彼らをどう判断するだろう。確かに彼らは著名人ではあるものの、もしも仮に彼らに「思いやり」が欠けていれば、私たちは彼らをどうみるだろう。しかしながら、賭けてもいいが、「やさしさ」や「思いやり」だけを持っている人間と、「やさしさ」や「思いやり」以外のステータスを持っている人間とでは、私たちの本性は、残念ながら、おそらく前者ではなく後者を選択しがちなのだろう。

そもそも論にはなるが、私たちはなぜ他者に対して、彼らは「やさしい」だとか、「思いやりがない」だとかと自由気ままに判断したがるのだろう。その前提には、「自分自身は当然のことのようにやさしさや思いやりを持っていると自分自身を認識している」という条件が隠されていることに気がつくことは少ない。アドラー的に申し上げれば、それらは自らの「優越性コンプレックス」の一部という意味でしかないのであろう。

要するに、これらの概念は他者に向けるべきものなんかではなく、自らに問いかけ、熟考し、検討し、実践するものなのである。そのような意味では、いわゆる「愛」とは、勉学の、あるいは哲学の最終目標なのかもしれない。

とはいえ、これは簡単なようにみえて、なかなか難しいことでもある。というか、極めて困難なことなのである。なぜなら、「やさしさ」や「思いやり」は、継続的に求められる態度なのであり、一時的に求められる態度、まして対峙する人間によって左右してもよい態度ではないからである。その態度が私たちに要求するのは、私たちの全存在、全時間に対してだからである。

それは意識的な自分に対しても、無意識的な自分に対しても要求される態度なのである。人間は四六時中、精神を張り詰められるようにはできていない。確かに、世の中にはずっと意識できるような人間もいるのかもしれないが、それでも私を含む大多数の方々は、そうではない。ふっと気を緩めば、そのような望ましい態度は、あとかたもなく忘却されるに決まっているのである。

岸見一郎は、アドラーの思想(哲学)は、理解することは容易でも、実践することが困難であると言っていた。そのような態度を無意識下に落とし込むまでには、人生という全時間をかけても足りるかどうかは疑問である。一度、実践することは容易でも、それを継続することは、多くの人間には困難だと私は思う。

では、どうすればよいか?

年月が経過し、気がつけば、私たちの多くはアドラーから学んだ思想など、もはやすっかりと忘れてしまっていることだろう。アドラー自身は、彼自身のことなど忘れてもよいから、この思想は受け継いで欲しい、みたいなことを言っているが、意識的にこれらをずっと心にしまっておくことは常人には難しい課題に違いがない。

では、この難しい人生の課題にどう向き合えばよいのか?

私の考えでは、そのためには、まずは寝ること、である。寝ぼけたことを申し上げているようで申し訳ないが、睡眠と健康は、これらの態度を維持するためには極めて重要なのだと私は思う。睡眠不足は私たちをイライラとさせ、精神的余裕を減退させる。これは、間違いがないと思う。

もちろん、睡眠不足下においても意識を続けて、他者にやさしく働きかけられる素晴らしい方々もいらっしゃるはずだが、いずれボロがでる可能性は否定できない。いくら聖人であろうが、疲れるときには疲れるのであり、精神的および身体的疲労の第一の特徴は、その意識を他者貢献ではなく、自己の回復に向けることである。

疲労困憊する人々にとって、第一になすべきことは自己回復であり、他者を思いやることなんかではない。意識的にせよ、無意識的にせよ、人間の脳はそのように自分自身に指令を出すとしたものである。

だから、まず私たちにできることは、充分な睡眠である。これは極論だが、世界平和のためには、差別のない世界を作るためには、全人類が必要な分だけ寝られていることが不可欠なのである。

岸見一郎は、いまだ現代はアドラーの思想に追いついていないと述べる。もしも私たちから寝不足が解消されれば、おそらくは、ほんの少しだけなのかもしれないが、私たちはアドラーが説いた世界観に近付けるのかもしれない。


PS : かくいう私は、残念ながら寝不足である。育児というものは割というか、かなり大変で、子供が生まれてから、もうずっと深刻な睡眠不足なのである。赤ちゃんは容赦なく抱っこを要求してくるし、今も赤ちゃんを抱っこをしながら、スマホでこの備忘録を打ち込んでいる、笑。

2024/03/08




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