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TureDure 18 : 僕はおじいちゃんになっても仲間と読書会をしたいし、即興演劇の舞台に立ちたい

ほりこーきがお送りする荒唐無稽、超絶無意味スペクタクル的パルプ随想録「TureDure」(読み方は“とぅれどぅれ”)。今回は僕が人生の目標としたいなぁと最近強く感じていることについて書きたいと思います。

ほりこーきという人間です

初めて僕の文章を読んでくれている人もいると思う。だから僕がどんな人間か一応簡単に紹介しておこうと思う。僕はしがない「ほりこーき」という名前の男だ。少し背が低くて、陽気な性格だが時々この世を憂いて死にたくなるような一面も見せる26歳(2020年12月現在)だ。大学院を卒業し、今は社会人教育系の企業でサラリーマンをしている。

僕は小学校から高校まではバスケット少年で、ほとんどの時間を部活をして過ごした。しかし、「人生一度くらいは東京で住んでみたい」という願望のもと、東京の大学にろくに調べもせずに進学を果たした。幸か不幸か僕の「ろくに調べもせずに」は良い方へと転がったと思っている。それは演劇と出会ったからだった。

即興演劇と読書会が趣味です。

演劇と出会った僕は、劇作と演出を主に担当して90分以上の作品を在学中に3本上演した。30分程度の短編は4本。特に演劇の中でもインプロと呼ばれる即興演劇に指導教員の教育によりまんまとのめり込んだ。結果的に修士課程まで進み、インプロの理論研究を経て、現在の会社でもインプロを人材育成として取り入れることを仕事の1つにしている。また、自身のインプログループである「IMPRO Machine」では2020年9月に静岡の路上演劇祭「ストレンジシード静岡」に出演をすることができたりと、言葉通りに公私問わず、インプロの活動ができているくらいには“インプロ厨“となった。

同時に平日の夜はほとんど毎日読書会に参加しており、会社の仲間や、大学の友人たちと読書会を開催している。自粛期間でほとんど外出をしていなかった時期から入れ替わり立ち替わりであらゆる分野のあらゆる書籍を読んでは友人たちとディスカッションする日々を過ごしている。

ある日のミテラボ にて

そんな読書会の1つである「ミテラボ 」では不定期にラジオを配信している。僕を含めた3人である書籍をもとに話を進めることもあれば、ゲストを招いてあれやこれやと膝を突き合わせるだけの時もある。anchorやSpotifyなどの各種ポッドキャストサービスでも視聴できるので興味のある方は「ミテラボ ラジオ」で調べてみてください。

ある日の収録で、僕はふと言葉をこぼした。時に自分の言った言葉に自分自身で驚くことがあるが、それはまさにこれだった。

「いやぁ、老後まで続けたいですね」

そう、老後まで続けたいんだ。ただそれだけなんだよなと思った。大人の世界はとにかく目的志向の世界だ。なんのためにやるのか、なぜやるのか、ヴィジョンは何か・・・・。もちろんそうした志向性は重要だし、目的の曖昧なプロジェクトや仕事ほど空を掴むものはないと思う。しかし、問題はそうした言葉や表現を繰り返していくうちに場合分けができなくなっていくことだ。あらゆること全てに目的を見出そうとする言わばビジョナリー・ハイ状態になる。逆に言えば目的が見出せないことに対してリソースを割くことが億劫になってくる。

少し遠回りな回想

僕は会社に勤め始めてから、あらゆるタイミング、あらゆる人から「何のためにインプロするの?」と問われてきた。それは市場経済のルールの中に適応するためには必要不可欠な問いだ。しかし、その問いに対して僕は大した回答がいまだに出来ない。コミュニケーション能力のため?創造性のため?チームワークのため?交渉力のため?・・・それらは確かに1つの目的として存在しうる。しかしどれも僕を掴んで離さない“それ“ではなかった。

僕はこの記事で“それ”がなんなのか分かったんだということを書こうという訳ではない。やはりまだ分からない。しかし、「老後まで続けたい」と僕の声帯を震わせた時に僕は今まで感じた中で最も“しっくり”きた。それは新型コロナという先行きの不安が蔓延している現代において強調されたからなのかもしれない。

ただそれ自体をすることが目的

「老後まで続けたい」ほどに、僕は読書会が好きだし、インプロが好きだ。だから老後まで続けられるような努力は厭わないし、そのためにたくさん勉強したいと思っている。ただ好きなことをただ続けることがおそらく無茶苦茶むずかしいことだろうと思う。いくら好きだろうが、社会情勢によって弾圧を受けやすいのが特に演劇や即興のある種の運命でもある。少し危なっかしかったり、少し理解されにくい、そうした実践はただあることが重要だったりもする。僕がやってる即興は社会に適合する側面もある一方で、ルールを歪めたり、適応範囲を広げたり、解釈を変えたり、異なるルールの存在可能性を示したりとリスキーな側面も多分に含んだ芸術分野である。

読書会はやっぱり硬派な書籍をよってたかって読み進めたい。決して十分理解できる訳ではないが、「さっぱり分からない」と互いに労い合う一方で「ここはこういう意味なんじゃないか」「いや、そうは思わない、なぜならここにこう書いてある」などと過去の偉大な業績に対して果敢に挑み、少し分かった気になって自分の思索へと持ち帰る。そしてまた次の読書会の時に仲間に話す。こうした“ただ行うことそれ自体が目的”となるように活動をうまく存続させ、僕以外の誰かにとっても「老後まで続けたい」と思えるようなグループないしコミュニティにする、これが原理だと僕は現段階で思う。

弱さとほんとのこと

しかし、やはりこれは非常に“弱い”のは確かだ。おそらくなんらかのほんの些細なきっかけで僕だけになる。なぜなら、この活動には同じように享楽的な喜びを見出してくれる仲間が必要だからだ。マッチョイズムで老後まで続けられるわけがない。体力も減っていくし、脳も弱っていく。ただポジティブで、楽しく、明るいだけではおそらくもたないだろうと思う。

だから、きっとこの活動を続けていくことで否応なくなんらかの目的的なことを考えざるを得なくなるだろうと思う。それは僕は過去に“平等”なグループを目指して、失敗したことがあるからだ。僕の享楽的な活動に付き合ってくれる人たちは僕が何を望んでいるのかに関心を持ってくれているということに気づき、軌道修正が可能になった。僕が楽しいと感じないことを“平等”という言葉で塞ぎ込んでしまったことをその時のみんなは敏感に察知してくれたのだ。

だから、楽しくないことに「楽しくない」と伝え、自分が正しい、ほんとのことだと感じていることについてなるべく言葉にして伝えていかないとグループは空中分解することだろうと思っている。そうした中で続けられる遊びはこの上なく楽しく、たぶん、何かのためになっている。

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