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TureDure 8 : インプロ的がんばらない(Be Average)学習論ーがんばらないで人が学べると言うのか!?どうしてだ!?え!?

ほりこーきがあることないこと根拠もへったくれもへちまもなく書き殴る共同幻想パルプ随想録「TureDure」。第8回の今回はインプロの話。インプロの中でも「がんばらない」っていう言葉と学ぶということについて。ヒーウィーゴー!

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キース・ジョンストンと「Spontaneity」

  インプロ、特にキース・ジョンストンのインプロにおいて、強調され、重要視されているのは「Spontaneity」(スポンタナエティ)という考え方である。明確な定義こそはっきりされているわけではないが、この単語が出てくる文章や文脈から判断すると、人間がほぼ生まれながらにして持っている脳の自動学習機能のことを指している。
  キース・ジョンストンのインプロ理論の多くは逆張り(Countrariness)という思考スタイルでもって形成されている。これは、一般的に正しい/好ましいと考えられていることの逆を考え、その逆の(つまり一般的に間違っている/よくないと考えられていることの)正しさ、おかしくなさを指摘し、「一般的な正しさ」の絶対性を揺さぶるようなやり方だ。
  「Supontaneity」の強調も例外ではない。すなわちこの言葉も何かしらの逆張りである。それは、「Reason」ないし「Personality」、すなわち“理性”や“人格”である。理性をよしとする、理性的にふるまうことがよいことだ、そして私たちはそうした振る舞いは人格を表していると考えている、つまり、おかしなことをする人はおかしい人で、理性的なことをする人は理性的な人であると考える。
  思いつきで話したり、行動したりする人は“理性的でなく”、“おかしな人だ”と考えられるので、1960年代では辞書的な意味では自然発生的とか自発的とかを意味する「Spontaneity」とは悪い意味を持つ言葉だった。
   しかし、ジョンストンは人間が持つ脳の自由学習機能をそのまま発揮することがインプロをすることの手助けになると考えたので、ジョンストンのインプロではこの「Spontaneity」を育成することが目標として掲げられる。

Spontaneityを阻むもの

  しかし、理性的であることがよいことであると日ごろから社会的に催眠状態にかけられている私たちは、そう易々と「Spontaneity」を発揮した状態(「spontanious」)になることは“理性的になりたい”私たちには難しい。恐い。怖い。そんな思ったことをそのままなんて、、、どんなことが口をついて飛び出すかわからないじゃないですか、、、
   もしくは、私たちはそうした表現力みたいなものが欠如していると考えているので、なんとかしてSpontaneity能力を身につけないといけない。だってわたしには才能がないから、、、うまくできないから、、、
   こうしたこれまでの人生で寝る間も惜しんで学んできた「この社会で理性的であるためにリスト」通りのパフォーマンスに熟達しているあまり、私たちは自分たちで自分たちのことをコントロールしようとし続ける。何かを学ぼうとする時ほどその傾向が強い。まだ私は未熟です、わかっています、私は未熟です理性的に考えれば私はまだまだ未熟者で初学者なので身を引き締めてのぞまくてはならないです!わかっています!心得ています!
    こうした素晴らしく教育された“学びに向かう姿勢”が、むしろをspontaneityの働きを阻害し、外からの情報を取り込みにくくし、アウトプットをぎこちなくさせているのではないか、そうジョンストンは考えた(と思う)。

Be Average:ふつうにやる、がんばろうとしない

   そこでジョンストンは様々な戦略を用いてこのSpontaneityを駆動させる手筈を考案する。それは演出の仕事と似ている。ジョンストンは1960年代にロンドンにあるロイヤルコートシアターという劇場の劇作家グループに所属していて、60年ー65年までの間に9本の戯曲の演出もしている。し、自分が受けてきた教育が“破壊的なプロセス”、つまり何か形式的な正しさを教えると同時に不全感まで与えているような機能を持っていたと考えていたジョンストンにとって、直接的に人を変えたり教え込んだりするやり方と反対の、真逆のやり方をもってして、課題を解決する教育方法/演出方法を編み出していく。
  その1つが、今回のテーマである「Be Average」である。日本語に直訳すれば「平均的であれ」みたいな感じだが、インプロ界(そんな界があるのか?)では「がんばらない」とか「ふつうにやる」、「そのままでいる」と言われている。少し引用してみよう。

ひどく緊張している生徒がいたので、「がんばろうとしてる?」と声をかけた。
「もちろんです!」
「それは有効な戦略だろうか?」
「がんばらなかったら、どこへも到達できません!」
「もし、登山家のことを私たちが“彼らはベストを尽くしてる”とみなせば、彼らは自分の能力以上のところまで移動することになるだろうし、命をかけて戦うことになる。オリンピックで持ち上げられた体操選手の団体は、金メダルが遠のくように思われるだろうし、全力を尽くして“がんばれば”、バーから落ち始めるだろうと思う」
「けどじゃあ、もし私がもがくのをやめたとして、私が行きたいところまで到達するためには、どうしたらいいんですか?」
「ただふつうにやる!(Just be average!)」
困惑。
「部屋を見渡して!椅子を見て!じゃあ部屋を見渡”そうと“して!椅子を見”ようと”して!助けになった?私はそう思えない。鼻を触って!もう1回やるけど、今度は触”ろうと“してーこれはあなたの行動をより良くしただろうか?催眠術士はあなたに閉じている目を開け“ようと”してもらうし、もしくはくっついた指を開け“ようと”してもらう。それはあなたが強く“やろう”とすればするほど、あなたのもっている能力が衰えるからだ。」
(Johnstone, K. “Impro for Storytellers : Theatresports and the Art of Making Things Happen.” Fiber and Fabre, 1999, pp.64-65.)

  ジョンストンは、ある目標を掲げてそれに到達しようとしている生徒に対して、「その目標に到達しようと思うのなら、到達しようとしない方がいい」みたいなことを言っている。まるで禅問答だ。そりゃ生徒も困惑する。しかもこの後ジョンストンは「脳は宇宙を作ってさ」みたいな話をしだすから余計生徒は困惑するんだけれども(笑)
  そして、誤って申請よりも重い重量が乗せられていると気づかずに重量上げの自己ベスト記録を更新した重量上げの選手の話に言及する。もし、この選手が自己ベストより重い重量だと気付いていたら、そして持ち上げようとがんばっていたらきっと持ち上げられていないだろうことを指摘するんすよ。つまり、何が言いたいんじゃということなんですけど、「がんばろう!」と思うのは自意識の働きなんです、自意識の思考というのは外側からの情報をシャットアウトするために働く防衛機能なんだ、だから学びにおいて「がんばろうと」思うほど自意識が働くのでむしろ情報がシャットアウトされちゃうんだと。だから、Be Averageでいることで、私たちの身体に備わっている自動学習機能の方に任せてやりましょうよということなんですね。
  たまにおそらく「Spontaneity」を指して「私たちのGood Angelが助けてくれるよ」みたいなこと言い出すから少し当惑もするんですけど、言いたいことは「学ぶときはリラックスしてハッピーであれ」ってことだと思います。
 

私たちはがんばって学ぶことを、学習者に強いてはいないだろうか?

それは、本当に学習者にとって学びの手助けになっているだろうか?

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