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True Dure 34 : インプロ・ワークショップをやるときに考えていること

ぼくはインプロ(即興演劇)なるものをパフォーマンスしたり教えたりしている。ぼくがインプロに出会ったのは2013年だから、今年でインプロとの付き合いは10年になる。この10年でぼくはインプロと出会い、学び、研究してきた。たくさんの人とのご縁があって、劇団、理学療法士、介護士、保育学生、医学部生や、業種業態に限らずいろんな企業にお邪魔してインプロのワークショップをしてきた。パフォーマンスもたくさんしてきた。仲間たちと一緒にパフォーマンスする時もあれば1人でパフォーマンスすることもあった。子供たちとインプロで遊ぶこともあればおじいちゃん・おばあちゃんたちとインプロで遊ぶこともあった。インプロのおかげで仲良くなれた人たちも国内外にたくさんいる。また、インプロをきっかけにして勉強できたこともたくさんある。社会学、哲学、人類学、パフォーマンス研究、教育学、心理学、どれもインプロの関心が基軸になって出会えた知恵たちだ。

今回はインプロのワークショップについて書こうと思う。ぼくは仕事でインプロのワークショップに呼んでもらうことがありがたいことに多い。そして上に書いたようにそれまでインプロどころか演劇なんてものも学校での芸術鑑賞の時以来だという人たちにインプロをやってもらうことになる。事前にぼくのことを呼んでくださる方々も、インプロを知っている人はごく僅かで、大抵は今現在のカリキュラムや学習内容では学べない領域があると直感していて、そしてまた直感的にインプロに言葉にならない可能性を抱いてくださっている。そんな中でなんとか調整をしてぼくを呼んでくださるのだからその熱意と尽力には本当に頭が下がる。インプロは明らかに得体の知れないものなので、インプロを実施するということ自体にリスクが伴うと思う。一方で、このリスクこそがインプロの価値であると思うし、いかにこのリスクを扱っていくのかが鍵になると思う。

インプロ(即興演劇)は史上最悪の言葉である

まず、ぼくがインプロのワークショップをするときに伝えるのは「インプロは史上最悪の言葉である」ということだ。インプロとは即興演劇のことを指す。大体の人にとって「即興」だけでも嫌だし、「演劇」だけでも嫌なものである。それなのにそれら二つがガッチャンコして「即興演劇」だなんて最悪の言葉の組み合わせである。だからこそ、インプロのワークショップをやりますよと聞かされてくる人たちは言い知れぬ恐怖感と、何をやらされるのだろうという不安感を強く抱いてくる。この恐怖感と不安感を感じているということが重要なスタートラインである。なぜならインプロで扱いたい問いは、「なぜ私たちは即興で何かを表現することに恐怖感と不安感を抱くようになったのか」ということだからだ。

私たちはオギャアと生まれた瞬間から即興が怖いわけではない。というかその頃に即興と即興でないものとの区別はついていないことだろう。しかし、成長していくにつれ、ある一定の価値観・経験・学習を経て、私たちは即興することが怖くなる。あるいは即興ばかりしていてはダメだぞという圧力がかかってくるようになる。つまり即興ばかりしていいると、危険な目に遭うかもしれないし、人を傷つけるかもしれないし、効率的で合理的な行動選択からどんどん遠のいていくかもしれない。そんなフラフラ、ふわふわした状態ではいけないよというのが成長するにつれて社会から、大人から伝えられる。これが即興から見た教育の一側面だ。だからこそ、人はある時期から意識的に即興しないように身体や思想をコントロールしようとする。コントロールできなかったものについては怒られたり、罰を受けたり、恥をかいたりするので、その時のマイナスな感情経験がより即興への抵抗感を強めることになる。こうしたわけで人は即興することにネガティブなイメージを結びつけて解釈するようになるし、即興することが許されているのは数少ない天才に限られるという価値観も培うことになる

即興は学習可能である

すなわち、「即興が怖い・特別なものだ」というのは学習の結果であるということだ。学習の結果である以上、「即興が怖くない・特別なものではない」ということもまた学習可能だ。

このように、インプロには「即興は学習できる」という前提がある。よってインプロのワークショップを行うときは、この学習の仕方に特に気を配る必要があると思う。なぜなら、即興を押さえつけるためになされてきた教育方法で、即興を教えるというのは単純に矛盾であるし、学習者にとってはダブルバインドになる。すなわち、相反する二つのメッセージが同時に出される(「即興してもいいんだよ」と口で言いながら、空気感は「即興するな」と伝えているような状態になる)。そのため、インプロのワークショップをする時には、どのような方法が即興を困難にさせてきたのかということに自覚的である必要がある。そうでないと、無自覚的に、即興を抑圧する方法を自分が再生産してしまうことになるからだ。

付け加えておくと、ぼくはみんなは抑圧されているのだから、それを解放して即興的になった方がいいとは思っていない。そうした図式に則っても、ぼくは責任が取れない。ぼくの立場は、抑圧と即興は両立可能だと考えている。どちらかがより価値のあるもので、より身につけた方がいいとは考えない。必要なのは、状況に応じて抑圧と即興を使い分けることだ。強いていうなら“常に抑圧的”な状態も、“常に即興的”な状態も同じくらい不健全だと思う。重要なのは、その時々に必要なモードに切り替えることだ。では“必要な”というのはどう判断したら良いのか、という問題は実は非常に重要な問題だと思うし、現代的な問題はこの点にあるとも思っているのだが、長くなってしまうのでここでは割愛しよう。またどこかで書く。

このようにぼくのやっているインプロは一般的な教育方法では教えられないという立場をとるから、オルタナティブな教育スタイルを採用し、オルタナティブな学習スタイルへと導いてくのが良さそうだということになる。では、オルタナティブな教育・学習スタイルはどのように探れば良いのか。実はこれに対してインプロはシンプルな戦略を取る。それは「逆さまにする」という戦略だ。

逆さまにする

ぼくがやっているインプロではあらゆる常識を逆さまにすることで即興を教える。どういうことか。先ほどインプロでは一般的な教育方法によって「即興をするな」と暗に教えているのだということを書いた。だとすればその一般的な教育方法がしていることと反対のことをすれば人は即興的になるのではないかというのがインプロの発想である(このへんがインプロとカーニヴァル性の共通項である)。

もし常識が「教室ではヘラヘラするな」と教えているのであればインプロでは「ヘラヘラしてみよう」と言う。もし常識が「失敗しないようにしろ」と言うのであれば「失敗してみよう」と言う。もし常識が「大きな声でハキハキと流暢に話せ」と言うのであれば「ぎこちなく話してみよう」と言う。このように、私たちの身体に働きかけているようなメッセージたちを1つ1つ逆さまにしてみる。そうすることで、私たちの身体は即興を再学習するとインプロは考えた。

ここではもちろんそんなスムーズにうまく行ったりしない。私たちが学習した即興抑圧装置は思ったよりしぶといからだ。どんなに脳が溢れるようにアイデアを出しても、私たちの自意識はそれらを自動的に拒否するように働くし、どんなに身体や感情が思いがけない反応をしても私たちは言語を使ってそれらを批判的にニュートラルにする。こうした私たちが長年かけて学んできた自己防衛システムと、眠っていた即興システムとかすぐには共存しない。まぁそれもそれで楽しいよねと笑っていられるのが重要だ。ではそんな空気感はどこで作られるのか。それは教師の身体からである。

証明としての教師

ぼくはやはり教師というのはとても大きな変数だと思っている。それだけシステムを整えようとも、教えている人がどんな人なのかを学習者は相当気にしている。明確な教師という存在をなるべく考慮しないようにする教育理論もあるが、偶発的な場ではなく、何かを学ぶ場を人為的に作り出した場合、そこにはやはり教師と学習者との存在の間には明確な線引きが存在する。ぼくは教師の存在を考慮しないことは権力関係の隠ぺいに思えてしまうので、自分が教師の立場としてインプロを教えるときには自分の権力性に自覚的であるつもりだ。

この権力性は使い方次第で暴力にもなるし、学習素材にもなる。ぼくの教えているインプロのスタイルはキース・ジョンストンという人の考え方を踏まえている。彼は『インプロ』という著作の中で、「教師とは生きている証明である」と言っている。すなわち、即興することが怖くないということは現に目の前に即興を経験した身体があるということが根拠になるということだ。こうした再現性のないことを言うのはという気持ちもあるが、身体というメディアから発せられる情報量はとてつもないのである。

論理としては綺麗に設えられたものであっても、身体的経験が伴っていない言葉にはどこか空っぽさを感じざるをえない。具体的な経験に裏づいた身体があって言葉が感染力を持つと思っている。それは抑揚とかの問題ではなく、要は理論だけでなく経験を伴っているかどうかは結構すぐ見抜かれますよねという現場感覚の話だ。

おわりに

さて、大体インプロワークショップをするときに自分が前提にしている考え方について述べられたように思う。ちょっと小難しい話もしてしまったけど、ぼくは知らない人とインプロをすることがとても好きだ。難しいなと思うことも多いけれどインプロのアイデアや技術が、それぞれの領域に何かインスピレーションを与えることができたらとても嬉しく思うし、そんな話をしながら死んでいきたいなと思うのである。
もし、インプロに関心のある方はぜひお話ししましょう、まずはお茶でもどうですか?

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