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セブンサミッツ

セブンサミッツ、日本語に翻訳すると七大陸最高峰。

私が「○○大陸最高峰」言葉を知ったのは、ある登山家の本がきっかけである。


地球上の七大陸にある最高峰は、言わずと知れたアジアのエベレスト(ネパール・チベット、8,848m)をはじめ、 南アメリカのアコンカグア(アルゼンチン、6,959m)、北アメリカのマッキンリー(アメリカ合衆国、6,194m)、アフリカのキリマンジャロ (タンザニア、5,895m)、 ヨーロッパのエルブルス(ロシア、5,642m)、南極のヴィンソン・マッシーフ(4,892m)、そしてオーストラリアのコジオスコ(オーストラリア、2,228m)とされる。

またはオーストララシアを含んだ場合はカルステンツ・ピラミッド (インドネシア、4,884m)と、ヨーロッパの最高峰をモンブラン(フランス・イタリア、4,810m)とする説もあるため、厳密にはセブンサミッツ・ナインピークス(七大陸最高峰・九座)という考え方が現在では一般的である。

2007年の冬、私はひょんなことからこのセブンサミッツの一座に挑戦することになった。


といっても、オーストラリア大陸最高峰のコジオスコである。

最高峰と言っても2,228mしかなくて、他の最高峰と比べあまりに低いので、かのラインホルト・メスナー卿が「大陸最高峰はコジオスコではなく、オーストララシアのカルステンツ・ピラミッドとすべきだ!」と苦言を呈した山である。

そもそも、セブンサミッツという定義もディック・バスと、フランク・ウェルズという二人のお金持ちが、ガイド登山でエベレストに登った後、自分たちの功績をまとめた著書によって生まれたものだし、ヒマラヤ高所登山までも商業化された昨今では、もはやセブンサミッツは登山家が目指す目標ではないと酷評されている。


私にとっては、七大陸最高峰という言葉よりも、植村直己さんが達成した五大陸最高峰という言葉の方が馴染み深い。

今でこそ、誰も「五大陸最高峰登頂!」なんて気にも留めなくなったけど、あの時代に植村さんが達成した五大陸最高峰登頂は、とてつもなく偉大だと考えている。

なけなしのお金を握り締め海外に旅立ち、計り知れない苦労の連続にも屈せず、そんな中で登り詰めた五大陸の頂は、ハングリー精神とオリジナリティに溢れた立派な記録である。

そう考えるとセブンサミッツは、もはや個の欲求を満たすだけの勲章なのかもしれない。

正直、私がこのコジオスコに登った理由も、最初は「七大陸最高峰のひとつ」というメッキの勲章が欲しかったからだ。

そのときの私は、山登りを再開したばかりで、とにかく何か実績が欲しかった。

本来、山に登るという行為は、その山に登りたいからという純粋な気持ちの上に成り立っているはずなのに、当時は、コジオスコという山が持っている肩書きが欲しかったにすぎない。

今考えれば、山ノボラーとして一番恥ずかしい行為である。

そんな完全な自己欲を満たすためだけに、私はコジオスコに向かった。


当時、私は博士課程の大学院生でニュージーランドのクライストチャーチで行われる国際学会に出席していた。

このGGAA(Greenhouse Gas and Animal Agriculture)「畜産における温室効果ガスの抑制と利用に関する国際会議」は私の父親が立ち上げた国際学会だ。

大学院の博士課程三年目で、最後の学会発表だったが、ポスター発表とはいえ、やはり緊張したのを覚えている。

父親が主宰する国際学会で最後の発表となったことは、とても感慨深かった。

それと同時に、焦りを感じていた。

将来どうしようかと帰路に立たされていた。


このまま、研究職に進むべきか。

それとも、教員の道を目指すべきか。

悩んだ。

研究者としての、父親の背中はあまりに遠かった。

GGAAに出席して、余計にそれを感じた。

だから、その時の私には、なにかしら「結果」が必要だった。

今考えてみると、ただのスキー場の上のピークにすぎないのだが、当時私にとってセブンサミッツのどれかに登るということは憧れであり、たとえそれが大雪山の旭岳より63m低くても、とにかく「結果」としてセブンサミッツのピークを踏みたかったのだ。

それがメッキの勲章だとしても。

今だったら、わざわざオーストラリアに飛んでコジオスコに登るよりも、サザンアルプスの主峰マウントクックに挑戦しようと思うのだが、初心者の私にとってマウントクックは、とてもじゃないけど登る対象の山ではなかった。


「励起さん、マウントクックに登らないんですか?」
「あんな尖った雪山、一体誰が登れるんだよ」
「無理無理!」

学会中、院生仲間とこんな会話をした覚えがある。

それに、たとえマウントクックに登っても大陸最高峰じゃないし・・・なんてことも考えていたはずだ。


そんなよこしまな考えで向かったオーストラリア。

私にとって複雑な思い出の国。

高校時代、オーストラリアに住んでいたが、私はそこで初めて人種差別なるものを経験した。

流刑がキッカケで定住が開始されたオーストラリアという国が持つ、根本的な人種への偏見は、当時高校生の私に容赦なく牙をむいた。

はじめて海外生活で「辛い」と思った。

最終的に、その差別はサッカーというスポーツの力で乗り越えることができたが、この経験は良くも悪くも私の分岐点となった。

そんな国に、再び降りた。

「結果」を求めて。


シドニーからバスで首都キャンベラに。

ちょうどその頃、キャンベラに住んでいた友人マット(松本くん)をコジオスコ登山に誘った。 

キャンベラでマットと久しぶりの再会。

マットは、ひょんなことで知り合った本州の友人で、大学院生として現地キャンベラの大学で哲学を学んでいた。

3つ年下なんだけど、その落ち着きっぷりは、確実に私より年上に感じる好青年。

彼に至っては最初から、七大陸最高峰ですか~、ふ~ん、といった感じで特に勲章に興味がない様子。

それよりも、だだっ広いオーストラリアで山に登るという行為が単純に面白いようであった。

着いたその日は、キャンベラのマット宅にお世話になり、翌日私が手配したレンタカーで、コジウスコの麓の村スレドボーまでドライブ。

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スレドボーはスキー場として冬は賑わいを見せる、国立公園内にある村だ。

どこかヨーロッパの雰囲気が漂い、オーストラリアらしくない町並みが新鮮。

私たちが行ったのは12月だったけど、向こうは南半球なので、季節は夏。

リゾートとしては閑散期で、観光客も少なかった。

そして、オーストラリアにいるとは思えない涼しさ。

おまけに悪天候だったため、パーカー一枚という出で立ちのマットは寒そうだった。

私は明日の登頂に向けて気持ちが高ぶっており、有頂天そのもの。

そんな私を、薄着のマットは寒さに震えながら冷ややかな視線を送っていた。

夕飯は数少ない営業店の中から、ピザ屋をチョイス。

二人で明日の登頂を誓ってビールで乾杯。

コジオスコが大陸最高峰として疑問符がつく理由。

それは、単に標高の低さだけが原因ではない。

もうひとつの大きな原因として、麓からスキー場のリフトで中腹まで簡単に登れてしまうということが挙げられる。

それでなくとも特に険しい難所もないことから、このリフトを使ってしまうと、完全にハイキングになってしまうのだ。

だから私たちはせめてリフトは使わず麓から自分たちの足で登ろうと決めた。

麓から歩くと、往復で38km。

これは、なかなかしんどい距離である。

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麓から登るとなると、まずはしばらくスキー場沿いにある登山道をひたすら登ることになる。

植生は違えど、森の中を進むので、なんとなく北海道の山と似ていた。

途中何度かスキー場を跨ぎ、やっとこさでリフトの終着地点まで到着。

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ここからが、ようやくコジオスコの登山口。

登山といっても、ほとんど傾斜はなく、広大な丘に向かって整備された道を永遠と歩く感じで、登っているというような感覚はなかった。

それにしても、長い。

さすが、オーストラリアである。

途中雪渓があり、二人童心に帰り、はしゃぐ。

オーストラリアで雪とは、なんともミスマッチ。


頂上は、巨大な丘の中央に位置し、ケルンとレリーフが埋め込んであった。

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その頃には、天気はすっかり回復し快晴に。

見渡すと、360度の壮大な大陸のパノラマが広がっていた。

「来れて良かったです。」

言葉少ないが、マットも充実感に満たされている様子だった。


私はというと、ここが七大陸の最高峰であることはすっかり忘れており、純粋に山としてコジオスコを楽しむことができていた。

マットと登れて本当に良かった、と素直に嬉しさがこみ上げた。

ずっと掛けていたはずの「七大陸最高峰」という色眼鏡は、どこかに置き忘れてきた。

メッキの勲章もいらなかった。


とにかく「広い」。


この形容詞がすべてだった。

と、同時に、焦ったり結果を求めていた自分がすごく馬鹿らしくなった。

ピークに立ち、マットと顔を見合わせ、笑った。


人生、なるようにしかならないな。

親父の背中を追いかけるより、自分は自分の道で「何か」を掴みたいと思った。

裸眼でとらえる穏やかな峰々は、果てしなく広がり、いつしか青空に吸い込まれていった。


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