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物語があるから、「病い」を生きることができる。-読書録『病と障害と、傍にあった本。』-

病や障害の名でひとくくりにできない
固有の症状や想い。
誰かと分かち合うこともできず。

そんなとき、傍らには
どんな本があったのか。

序文からここまでノックアウトされてしまう本はめずらしい。

福岡の書店で何気なく手に取った『病と障害と、傍にあった本。』(里山社)。12人12様の病や障害の体験と本との関わりについて綴られた一冊だ。

「病や障害の名でひとくくりにできない固有の症状や想い」

僕らの生はなにかの名前をつけてひとくくりにできるものじゃない。「統合失調症だから」とか「がんだから」とか「聴覚障害があるから」とか、そういった病名や障害の名前は、わかりやすいかもしれない。けれど「統合失調症」とカテゴライズされた人でも、しあわせな人もいれば、そうでない人もいたりする。


メリカの精神科医で医療人類学者でもあるアーサー・クラインマンは、「病気」を「疾患(disease)」と「病い(illness)」とに区別した。立教大学(ぼくの母校です)の中原淳教授の記事がわかりやすいので引用してみる。

「病い」とは「個人が病気に関してもつ意味」、すなわち「物語」のことである。それは、自分の病気を患者が「語る」なかで構成され、いったん構成されてしまうと、患者の人生の中のあらゆる出来事の意味を統御する効果をもつ。
対して「疾患」とは「生物医学的な構造や機能の不全」である。たとえるなら、「胸の痛み」が「急性大葉性肺炎」に換言されるとき、「病気」は「疾患となる」ことになる。
(引用:疾患と病い:アーサー・クラインマン著「病いの語り」

そう、「病い」とは「物語」なのだ。患者は自分の病気を「語る」ことで、「病い」は「物語」になる。

だから本は、僕たちが自分の病気を「語る」ために、支えとなるような「物語」を提供してくれる。たとえば潰瘍性大腸炎をわずらった頭木弘樹さんが、カフカの『変身』を「まるでドキュメンタリーだった」と感じたみたいに。

大きな病気でなくとも、なにか元気がないときに、物語がささえになった経験は誰にでもあるんじゃないかな。それは、「あなたはこれこれこういう症状なので、こういうお薬を処方しますね」というお医者さんの治療的なかかわりとは違う形で、僕らを癒してくれる。病気の経験が誰かと分かち合うこともできないなら、よけいに本が支えになる。

ぼくの場合、スマホでSNSをみる時間が増えて、すっかり本を読む時間が減った。なんだか、物語にふかく触れる体験があまりない気がする。そうなってくると、「物語」によって癒されるということもなくなってくる。

でも、たまーに本を開くと、やっぱり癒されるんだよなぁ。SNSは大きな流れの中にぼくを引きずり込もうとするけれど、本は寄り添ってくれている感覚があるのだ。

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