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第4回 お坊さんの人生も悪くないなと思ったのはどんな時ですか?

長野県塩尻市の善立寺副住職と郷福寺副住職のゆるゆる交換日記マガジン

今どきのお坊さんがこれからのお寺について色々考える話(仮)」

第四回です(前回はこちら

白馬さんからのご質問

Q.小路さんは一般のご家庭からご縁あって、お寺にお入りになりましたよね。きっと私以上に戸惑うことが多くあったでしょう。
そんな中で、お坊さんの人生って悪くないなって思ったときはどんなときでしたか?

人生設計に「お坊さん」は無かった

私は寺生まれではなく、大学院まで機械工学を学び、エンジニアになったガチガチの理系です。今でもお寺とIT、DXについて活動しています。

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人生設計の中で「お坊さん」になるなんて選択肢は考えたこともありませんでした。

そんな私が恋人の実家がお寺という理由で、結婚を機にお坊さんの道に入りました。

戸惑い

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写真:修行道場 浄土宗大本山百万遍知恩寺(京都)

白馬さんのご質問にあった“戸惑い“ですが、修行は戸惑いばかりでした。

浄土宗のお坊さんになる道はいくつかあって、私は「浄土宗教師養成道場」というカルキュラムを受けました。これは夏・冬、それぞれ3週間の道場を合計4回修了できれば、最後の修行を受ける資格を得られるというものです
(※現在は変わっています)

イメージとしては合宿免許みたいな感じですが、外界との連絡は完全に遮断され、肉親が亡くなったとしても連絡は来ません。指導が厳しく、つらくて帰ってしまう人も少なからずいらっしゃいます。

生徒の年齢も様々で、10代~70代までの40人ほど。
経歴も大学生、鉄道作業員、歯医者さん、建築家、元校長と様々。

住職である父親に無理やり連れてこられた人もいれば、自ら志を起こし、僧侶を目指される方もいました。もちろん、私と同じ婿養子で入った方も。

バックグラウンドもモチベーションも全く異なる丸坊主のおじさん40人が、同じ黒い法衣に茶色の袈裟を付けて、生活しました。


ちょっと何言ってるかわかんないです

はじめての修行、先生が何を言ってるのか理解できませんでした。
”おい小路、エゴロ持ってきて”

(エゴロてなんや)

"ライバン用意して"

(サングラス?)

コウタン、サンボー、バイ、ライバン、バンギ

初めて耳にする専門用語ばかりで、まずノートに用語と意味を書き込んだ自作の辞書を作りました。

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写真:これがバンギ(版木)起床の合図などに使います。

講義では歩き方(歩幅まで決まってる!)の所作、お経の読み方などの実技と、僧侶として必要な知識を習得する学科がありました。分刻みのスケジュールと厳しい指導に加え、毎晩、習得度を見極める試験があり、落第すると次の課程に進めないプレッシャーもありました。

夜中になると誰かが布団の中で泣いているのが聞こえ、一度心が折れてしまったら二度とここに戻ってこれないだろうなと感じていました。

毎日毎日、目を覚ました瞬間から寝る瞬間まで、必死に食らいついてました。

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すべてを手放して、その手に残るものは何か

そんな修行を終え、“お坊さんになりました“というと「修行で何か変わりますか?」と質問されることがよくあります。

私も何か”確かなもの”をゲットできるのでは!と期待していました。

がそんな何かをゲットすることは有りませんでした(※個人の感想です)

私にとって修行は、得る場所ではなく、手放すことができる場所でした。

外の世界では、仕事の役職があり、家庭での役割があり、それらから離れることはできません。

が、修行ではそういった自分のIDを一旦手放す必要があります。

”大企業の社員”とか”どこどこの大学を出た”といったIDは意味をなさず、一人の人間として、問題に立ち向かわなければなりません。

それって普通の世界ではとても難しく贅沢なことで、まじまじと自分の心と向き合えることができる時間でした。

追い込まれてくると、逃げ出したいと思う弱い心や、お寺生まれの人を羨しく思う心が出たり。一方で、仲間の小さな優しさがとても嬉しかったり、仲間が課題に合格できたことをみんなで泣いて喜んだり。

自分が何に幸せに感じ、何に恐れを抱くのかを気付くことができた気がします。

そんなとき、お坊さん悪くないかもと思いました

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坊さんになることより、坊さんでいることの方が難しい

これは2年間の修業を終えた私たちに先生がくれた言葉です。修行終わったばかりの頃は理解できませんでした(修行より大変なわけないやん!と)

私も白馬さんと同じく、今は子どもに怒ることもあれば、夫婦喧嘩もあったり、子どもが病気になったら心配しと、心定まらぬ日々を送っています。

「坊さんになることより、坊さんでいることの方が難しい」

そんな今、この言葉を思い返します。

お坊さんになれば、人の死に慣れるとも思ってました。
それが、御檀家さんと親しくなるほど、亡くなったときの悲しみも強く感じています。

よくお話ししたおばあちゃんが亡くなる。
私と同世代のパパが事故で亡くなる。
小さなお子さんが病気で亡くなる。

お葬式では木魚叩きながら泣きそうになります。
帰り道、たまらず車中で泣いてしまうこともあります。

現実はドラマみたいな奇跡が起こらないし
インスタントなイイ話なんて無く、
140文字では伝えられない話ばかりで
今も戸惑い続けています。

お坊さんでいるって難しいですね。

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悪くない

それでもお坊さんって悪くないと思えるのもまたお檀家さんのおかげです。

お葬式で泣いていた子がお参りに行く度にたくましくなっていくこと
墓前に家族が増えたことを報告に来てくれたりすること
みんなで手を合わせて、先に逝った人のために念仏を唱えてくれること

そんなとき、お坊さんになって悪くないな。なれてよかったなと思います。

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白馬さんが前回おっしゃった、祈りの場所としてのお寺。に通じるところかもしれませんが、

私はお寺に来たら社会的地位や名刺を忘れ、一人の人間に戻り、大切な誰かとのつながりを感じられる場所であって欲しいなと思っています。

だからこそ、これから起こる過疎化やアフターコロナ時代も、
この場所で火を灯し続けたいと思っています。

今はとりあえず、お盆の棚経でお檀家さんにお会いするのが楽しみです。

日記を書いてみて

そうそう。書いていて気づいたですが、以前は、お坊さんとして”しなければならない”と思ってばかりでしたが、最近は”したい”と思うことが増えましたね。うん。悪くない。

では、私から白馬さんへの質問です。
Q:うちの先代住職は修行に赴く私に「いいお坊さんになってきてね」と声をかけてくれました。それから「いいお坊さん」ってなんだろうと自問しているんですが、白馬さんが想う“いいお坊さん“ってどんなお坊さんですか?

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