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第3回 お坊さんが語る、お坊さんやってて良かったと思う一つのこと。

 今どきのお坊さんがこれからのお寺について色々考える話(仮)第三回です。お坊さん二人の仲良し交換日記、もとい往復書簡1通目。長野県塩尻市善立寺副住職、小路さんからご質問をいただきました。

Q:
白馬さんが「お坊さんやってて楽しいな」と感じるのはどんなときですか?

 それは「祈る」ときです。
 私は「祈りの共有」をお寺のミッションの一つと考えていて、祈ることによって得られる「心の穏やかさ」を皆さんに提供していきたいと考えています。

でも、祈るって古臭いと思いませんか?

 私はお寺の長男として生まれました。しかし、10代の頃は跡を継ぐのが嫌で仕方がありませんでした。僧侶になるために高野山に修行に行ったときも、最低限の修行だけでさっさと帰ってこようと思っていました。なので、修行もそんなに真面目にやっていたわけではないのです。だって、思いませんか?この科学全盛の世の中で、祈る・拝むに何の意味があるのかと不謹慎ながら本気で思っていました。
 そんなこんなで行った高野山の修行生活は本当に前近代的でした。携帯持ち込み禁止、ネットはもちろん、テレビもラジオもありません。外出週二回、外出しても修行に邪魔なもの、例えば漫画や雑誌は買えません、読めません。あぁ、一つだけ例外がありました。手塚治虫のブッタです。
 真言宗の僧侶になる上で、「四度加行」という修行があります。期間は百ケ日。その期間は厳しさのレベルが上がります。入るときに誓約書を書かされます。親や身内に訃報があったらどうするか。ほとんどの人が受け取りを拒否するに丸をし、提出します。訃報を受け取れば、最初からやり直しになるからです。それだけ厳しい期間であるということです。
 その期間に、真言宗の僧侶として必要な印や真言を大阿闍梨さまからお授けいただきます。そして、次第に従って仏さまを拝む作法を身に付けます。これが本当に大変!ちょっとでも作法が違っているとものすごく怒られます。それが教えを正しく伝えていくことであると習いました。祈るってなんの意味があるんだろうとか、自分は何をやっているんだろうとか考える余裕もありませんでしたよ、逆に。
 意味もわからずに、ただひたすら習ったように仏さまを拝む日々。しかし、その時間のなかで、私たちの宗祖である弘法大師空海さま、お大師さまがおっしゃっていることが何となくわかるような気がしたのです。
 その感覚を例えるなら「月」です。月の夜、雲の切れ間から一瞬だけ満月が顔を覗かせる。しかし、見えたのは一瞬だけでまた雲に隠れて見えなくなってしまう・・・そんな感覚でした。

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その先にあったのは、絶対的な静けさでした。

 そうは言っても、お大師さまのみ教えがわかったのかというとさっぱりです。でも、あの感覚は何だったのか、と思ったのが運の尽き、いや、言葉を間違えました。お大師さまのお導きでした。もうちょっと勉強してみようかな・・・と思いはじめまして、高野山に残ることにしました。本山の高野山金剛峯寺の研修生として修行することにしたのです。それからの生活は本当に大変で、そんな殊勝な心がけを何度後悔したことかわかりません。
 その中、あのときの感覚をもう一度思い出したのは研修生の最後でした。卒業の直前に、高野山奥之院での参籠が課せられました。高野山の一番奥にあるお大師さまの御廟で加行と同じ修行、外の世界との接触を一切断った生活を送ります。しかし、今度はたった一人。2月の初めの高野山、一番寒い時期です。毎日のように雪が降り積もっていきます。奥之院の先輩方も君は参籠中だからといって最低限の会話しかしてくれません。
 そのときの感覚を言葉にするのは難しいのですが、世界から音や色彩、存在の全てが無くなり「世界に自分とお大師さましか存在しない」という感覚になりました。それが最初はとても不安で、寂しくて、とても辛く感じました。しかし、祈っているうちに、不安とか寂しさがどうでも良くなってきて「世界がどうあったとしても自分とお大師さまは存在するのだ」という感覚になっていきました。それは、とても静かでした。単に音がないということではありません。不安や辛さや悲しさ、そういったものが全て無くなるような状態。静かという言葉では表現しきれないくらいの、絶対的な静けさのある境地でした。

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だから「祈る」とは古い新しいでもなく、特別なことでもないと思うんです。

 そんな私が高野山から信州へ戻ってきてどうなったかと言いますと、日々のお寺のお仕事に追われ、時には妻と喧嘩をし、子どものやることには腹を立ててしまい、およそ静けさとは全くかけ離れた生活を送っています。忙しい日々の中で「心が穏やかになる」ことって何だろうと考えます。思うに、静かになるための場所と方法を知っているということが一つの答えになりましょう。ここに行けば、こうすれば大丈夫という経験は自分の中の余裕を生み出すからです。
 その場所は仏さまのいるお寺であり、方法は祈るということ。祈るにもいろいろあります。作法に則って厳格に捧げる祈りもあれば、瞑想や写経といった仏教体験、もちろん何もそんなに難しいことでなく単に手を合わすということも同じ祈りです。お寺にお参りするとき、あるいは仏さまに手を合わせるとき、心が澄み渡っていくような不思議な感覚ってありますよね。どんな祈りも同じところに繋がっていると思うのです。ほんのちょっと仏さまに手を合わせるだけだとしても、今を生きる私たちみんなにとって大切な時間になると思っています。

 この「祈る」を共有するというコンセプトのもと、郷福寺では「郷福寺喫茶」という行事を毎月一回行っています。(詳しくは郷福寺Facebookをご覧ください。)

祈ることを知って、祈ることができて、良かった。

 実際のところ今の私は、高野山のときほど、祈る時間を持てているわけではないのです。
 それでも祈ることとその場所がすぐ近くにあって、心穏やかになれる「祈り」を知っていることが、お坊さんになって良かったなと思うことです。そして、お坊さんとして多くの方と祈りを共有し、心穏やかな時間を提供していきたいと考えています。

 祈りの共有、
 なんかむかーしから今まで、
 ずっと我々お坊さんがやってきてることのような気がします。
 その現代化って今どきのお坊さんっぽいテーマですよね、小路さん!

 それでは、今度は私から小路さんに質問をいたします。

 小路さんは一般のご家庭からご縁あって、お寺にお入りになりましたよね。きっと私以上に戸惑うことが多くあったでしょう。そんな中で、お坊さんの人生って悪くないなって思ったときはどんなときでしたか?

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