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2021/08/23

 起きたら全部が凍ってしまっていて、どれから手をつけたら良いか分からなくなっていた。ピアノのことか、それともあのときの関係のことからか。どれもこれも、小さい頃のことだった。僕たちはまだ小さいさかった。多分、10歳くらいの頃だと思う。消えてしまったのなら手先の器用さで補えばよかった。忘れてしまったのなら、繰り返し繰り返し声を出すことで思い出せばよかったのだが、またなくなってしまった。これは儚さとか、タイミングとかのことではないように思うし、緊張していることを公にしようってわけじゃない。僕はこれから舞台に立ち、ある発表をしなくてはならない。それは秘密にしていたことを打ち明けることであり、しかしどれもこれも漏洩してしまっている情報に過ぎないし、聞いたところで誰も驚きはしないだろう。僕はタイミングを見計らっていた、すでに照明は照らされている。セリフだけが繰り返されていく。当たり障りないやり取りや動作が次第に誇張されていくようで、大きく見えた。

  私はその動作を見た。確かに見ていました。観客席から見ていました。彼の動作の異変に気付きました。それは微細なものでした。小さな変化だったのかもしれません。かといって動作に現れていたわけではなかったのかもしれません。私は気づいたら舞台に駆け上がり叫んでいました。場内は騒然としていました。それでいて何事もなく、物語は進行していきます。私は恐ろしいという感情を抱きながら、諦めに似た表情を浮かべました。私が浮かべました。どれもこれも知らないことばかりでした。後悔はありません。震えている足をなんとかせき止めようとします。この震えさえなければと思います。だけどまったく、それは教育が間違っていたとか、そう思い込んでいたとか、だからその、あのことです。教育のことです。間違っていた教育のことなのです。あの時は正しかったのかもしれません。しかし異変に気付いている者もいましたから私は必死に抵抗していました。
「いけないんだと思います。このままではいけないんだと思います。」
「じゃあどうする?このまま捕らわれるのか?それともここで命を絶つのか?どうする?潔く自決することがなぜ出来ない?」
「いや、だからその、私は、私はいけないんだと思います。間違っているとか、否定しているとか、思想が誤っているとか、そういうことを示したいわけではなく、だからその、私は、いけないことだと思うのです」

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 少し、心配し過ぎてしまったのかもしれないし、あまりに無関心だったのかもしれません。目の前で起きている事態に体は凍りついていました。硬直した皮膚と体、立ち止まってしまった血液や体温。体はすっかり冷え切ってしまって、だけどきっと熱を測るなんてことをすれば平熱なだろうと思うし、体調が悪いなと思って測ったところで平熱以下なんてこともざらだった。決定権は私にはなかった。だが、全てを選び取ることができた。つまり決定することに執着する必要はなかったのかもしれない。私はいつまでたっても自信がなかったし、それなのに堂々としていた。知らないことと知ってることの狭間で困惑していた。

 義理の兄弟が目配せする。足元を見た。サビた鍵が落ちていた。私はその鍵を手に取りポッケに入れた。私は気付かれていない風を装ってそうした。義理の兄弟は目配せだけして何も言わなかった。私たちはこういう関係をもう何年も続けている。私たちはこうやって、何も語らないまま、その一つ一つの行為が悪事であるのか、それとも倦怠からくるただの妄想なのか分からないまま横たわっている。畳の部屋で寝転がる。うだるような暑さが続く。眠り始めた時は何も感じていなかったのに、目が覚めたら汗だくになっていた。気だるそうに目覚めて思い出す。
「私は、私の熱意や欲望に遠慮していたのだ。私は、私が愛すべき存在から距離を置き、何もかも放棄した。それがピアノことだ。私はあらゆることを放棄した。習い事や、習慣、決められた生活、思いのままに喋ること、あるいは検閲せずに罵倒すること云々。」

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 僕は怖気付いてはいなかった。事態がどれだけ困惑しようとも、捉えるべき瞬間は確実に捉え続けていた。そしてその時がついに来たのだ。私は公にすることに成功したのだ。

 私は止めようとした。なんとか食い止めなくてはならなかった。決して漏れてはならないことだったからで、私はすぐに彼に飛びついた。私は彼を説得した。無言で説得した。ただ触れている肌の興奮だけが私の手を伝って、皮膚を伝って、私も興奮していた。こんなことは初めてだった。私は取り乱していたのかもしれません。いつも冷静であったはずの私が、どうしてあんなことをしてしまったのか今になっても説明がつきません。でもそれを見ていた人は言うんです。「あなたがしたことは間違ってはいなかった。咄嗟の出来事だったから。よくやったと思います。そしてそれでいて暴力的でした」って。

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寝転がってる宇宙と起きがけの体温。

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