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包摂の無色さ-東大のガイドラインを読んで-ダイバーシティ(6)

東大の性的指向等に関するガイドラインを読んだ。

ラベルとしては性的指向に関するものだが、抽象化すると、人の権利に関する話だと思って読んだ。

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例えば、「最近は色々とややこしいようですが」「私はLGBTQではないですが、世の中には。。。」などの言い方で、自分はそちら側ではないと言及するのはダメということであったが、これは差別・被差別の話や、人種や国籍、宗教、障害などの話と同じように見えた。

自分はマジョリティであると思いたい気持ちは誰にでもあるが、それを声高に言うことはマイノリティをマイノリティとして扱っていることになる。

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最近の若者は炎上を嫌うとか、色がつくこと、つけられることを嫌うという。僕はこれを「無色化」と呼びたいが、それはこうしたところの権利意識の高まりから来ているのではないかとつながった。

逆にいえば、それを嫌わない私たちの世代の方が「異常(あえてこの表現を使う)」なのだろう。

インクルージョン(包摂)とは、殊更に言及しないことなのかもしれない。そう、つまりそれはどうでも良いものだから。どうでも良いというと噛みつかれるかもしれないが、人種が違うことや宗教が違うこと、性別が違うことなどの生まれ持ったあらゆる違いは、人を人として尊重する限りどうでもいいことであり、わざわざ言う必要のないことだ。

わざわざいう必要のないことに対して、有能感を持ちたかったり、人を貶めたいといった人の性が常態化していることが普通でないわけだ。

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ふと、思ったこととして、遺伝子検査がある。以前、遺伝子検査をした。さまざまなことが分かり、実に驚いたが、例えば自分のの中の縄文と弥生、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の比率、日本系か朝鮮系かそれ以外かなどもよく分かる。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが交配していた話はサピエンス全史で読んだが、その数字を突きつけられるとやはり驚く。

人に言うか言わないかは別にして、これらも取るに足らないことであるが、自分は純粋な何かだと思いこんでいる人にはショックが大きいだろう。

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自分の属性を外に出さない限りは、見えない存在で居続けることができてしまう時代でもあり、であるが故に、自分をさらけ出すことも個性であり、そして、その権利も守られるべきものなのだ。(「私は弱者です」も包摂という観点からするとNGなのではないか。)

となると、色のない相手とばかり会話を交わすことになるのかもしれない。気のおけない相手ならよいというのも思い込みなのかもしれない。無色な人は、昔は「透明な存在」と呼ばれたものだ。このあたりに昨今感じる違和感を紐解くヒントがありそうだなと思う。

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