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ハーフ・オブ・イットから見える文学の風景について

めいめいが、なぜ地獄に落とされたか、そのわけを白状しない限り、僕たちは何も知ることはできない。
 ジャン=ポール・サルトル『出口なし』

 今更ですが、『ハーフ・オブ・イット』のことを。公開直後から周囲の映画好きは熱狂的にこの作品を賞賛し、どれどれと僕も観てみようかしら、と鑑賞したのですが、あまりにも良くてすごい量の涙を流してしまいました。ただ、多くの人がこの映画について語っているのを読んで「なんかもういいや」とものすごい勢いで熱が覚めてしまったこともあり、しばらく忘れていました。いやぁ、我ながらめんどくさいやつですね。でも、思い返すと本当に良かったし、引用などで使用している映画や文学作品の使い方がとってもよかったので、ちょっとそこを拾っていこうと思います。

 まず、監督のインタビューなどを読むと、必ずと言っていいほど戯曲の『シラノ・ド・ベルジュラック』を下敷きにした、と言っています。因みに僕は英語は中学生レベルですが、Google翻訳でよく外国のサイトのインタビューを読みます。意外と読めますよ。文明の進化は本当に素晴らしい。まぁそれはいいか。

 『シラノ・ド・ベルジュラック』は、博学で文学の才能に溢れ、剣術までこなす才人だけど容姿が醜いシラノの話。シラノは美女ロクサーヌに想いを寄せるが、自身の醜さゆえに告白することができずにいる。友人クリスチャンもロクサーヌに恋をしており、シラノにラブレターの代筆をお願いする……、という、もはやそのままですね。原案と言ってもいいでしょう。

 シラノは醜い鼻ゆえに異性に見向きもされないのですが、“鼻”というのはゴーゴリもモチーフにしてますね。そして芥川龍之介にもある。ロック界ではThe WHOのピート・タウンゼントは自身の鼻がコンプレックスで、女の子に全然モテないからギターを始めたとか……。まぁこれはちょっと違うか。脈々と繋がる“鼻”の系譜は面白いものがあります。

 冒頭いきなりプラトンの『饗宴』の引用が使われます。『人間はもともと背中合わせの一体である』という箇所ですが、物語の中のとあるシーンでそれが非常に美しく表現されているシーンがありました。いやはや、あそこは映画史に残る名シーンだと思います。
 ちなみに『饗宴』終わりの方で喜劇と悲劇は同一だ、ということが語られます。「悲劇詩人は同時に喜劇詩人である」と。この悲劇と喜劇は紙一重である、という価値観は、チャップリンを始めとした数多くの映画と呼応します。プラトンは偉大ですな。

 この映画の核にあるのは、やっぱりサルトルの『出口なし』だと思います。『出口なし』は女二人と男一人が欺きあいながらも、本音を語るに至る戯曲です。この映画の構造はこちらがモチーフになっています。
 「地獄とは他人である」というパンチラインはかっこいいので、ついつい言いたくなってしまいますが、『出口なし』は、そんなかっこよさなんて吹き飛んでしまう、虚しく滑稽な話です。自分が他者からのまなざしに囚われて(捉えられて)しまうことで生まれる存在論的な苦悩を、サルトルはこの戯曲で表現したと言われています。まさに『ハーフ・オブ・イット』の三人が思い悩んでいることに繋がります。

 また、オスカー・ワイルドの引用も印象的ですね。「恋は、いつだって自分を欺くことから始まり、他人を欺くことで終わる。これが世間でいうロマンスというものである」という『ドリアン・グレイの肖像』の引用はもちろんエリー・チューと重ねられるわけですが、忘れてはいけないのが、オスカー・ワイルドはバイセクシャルなんですよね。
 オスカー・ワイルドは本当に悲しい生涯を送ったひとで、男色で捕まり獄中で破産し、その後放浪の末に性病が元の脳髄膜炎で亡くなってしまうのですが、葬儀は数人しかいない寂しいものだったと言います。しかし、日本文学に多大な影響を与えていて、森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介などが影響を受けたと言われています。

 このような様々な引用を経て、主人公のエリー・チューは誰かの言葉を借りるのではなく、ついに自分の言葉で語りだします。映画や本の中のことばでなく、自分の言葉を見つけるのです。これは、監督自身がこの映画で実現したことかも知れません。
 監督は家庭の事情で一度映画監督を諦めたことがあるらしく、10年くらい映画製作から遠ざかっていたとか。10年、長いよなぁ。特に近年はLGBTQがテーマの映画も多く作られ、価値観の変化が大きかった10年でもあると思います。でも、その時間があったからこそ、この映画でそれぞれの愛や進むべき道を見出すときの感動があったのかな、と思いました。

 多くの引用で映画や文学の風景を広げ、自分の言葉とは、すなわち自分とはなんだろう? という普遍的な問いかけを見た人に残す、素晴らしい映画でした。IMDbを見ると実は本国ではそこまで評価は高くないのかな?という印象ですが、僕は2020年を代表する素晴らしい作品であると思います。
 

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