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日本語習熟論学会に参加して

facebookに3つ記事を書いたので、シェアします。

Ⅰ.


言語習熟論学会(2021年にできた新しい学会)の第1回年次大会に参加中。午前中のシンポジウム「習熟論の必要性・可能性」が終わりました。全体の感想などは「省略」して、聞きながら考えたこと。

「日本語教育に従事して知識・技能と思考力・判断力・表現力等について考えること ─ 日本語教育と国語教育における日本語の習熟を考えるために」(以下のメモのタイトルです。)

1.仮の用語の定義

(1) 言語知識・言語技能を包括して、仮に言語知識とする。

(2) 思考力・判断力・表現力等を包括して、仮に思考力とする。

2.各々の特性

(1) 言語知識は、畢竟、(言い回しなども含めて)言語事項・言語知識(音声、文字・表記など)とならざるを得ない。言語事項や言語知識を取り上げて、取り立てて指導することは可能だが、それは習熟ということと結びつきにくい知識(明示的知識)の習得となると見られる。

(2) 思考力は、それ自体としては取り扱うことはできない。思考と知識が融合した形でディスコースを産出したり、提示されたディスコースを(能動的に)受容してそれに対して一定の「応答」を出したりしてもらわないと、どのような種類の思考がどのように行われたかを知ることも、それに基づいて指導することもできない。

(3) 言語知識が適正に身についているかどうかは、主として言語活動従事での適正に(あるいは不適正に)行使された「産物」において、観察者や教師は知ることができる。しかし、言語活動従事ではすでに思考が働いているだろう。

3.言語技量(language capacity or communicative capacity, Widdowson, 1983; 1984)

言語活動に従事する能力を、言語技量と呼んではどうか。

言語技量=言語知識×思考 となる。

4.リソースとしての言語知識

特定の言語事項や表現が適切に行使できるということは、その言語事項や表現の知識が「身についている」と言わなければならない。その場合、(日本語教育の場合でも、国語教育の場合でも)何らかの顕在的知識として身につけているのではなく、言語活動従事において動員可能なリソース的知識(隠在的知識)として身につけているのだろう。

5.教育・指導的課題

日本語教育の場合でも、国語教育の場合でも、習熟のための教育・指導的課題は、そのようなリソース的知識(隠在的知識)を身につけさせることである。

6.日本語教育と国語教育の違い

(1) 日本語教育

日本語教育の重要部分は、そもそもの言語知識(言語事項や表現)を学んで摂取することとなる。そして、それは初期的には「仮初めの知識」、「仮初めの言葉」とならざるを得ない。 自身の第一言語の相当物と現下の言語事項や表現が「重なっている」場合は、一気に取得できる。「重なっていない」場合は、その後の「調整」(tuning)が必要になる。そして、その「調整」の部分は、言語と思考の共調整となる。

日本語教育では、そのような全過程が日本語の習熟となる。狭義には、習得という段階と習熟という段階に分けることも可能。

*「仮初めの言葉」については、西口; 2006, pp.27-33。

(2) 国語教育

国語教育では、生徒や学生たちには、多くの言語知識(言語事項や表現)に関して当面の蓄えがある。つまり、十分に適正に行使することはできないがおおむねの「意味」「用法」が「わかる」言語知識の当面の蓄えがかなり豊富にある。なので、習熟は、主に「調整」(tuning)の部分となる。そして、日本語教育の場合と同じく、その「調整」は言語の思考の共調整となる。

(3) 日本語教育と国語教育の違い

日本語教育の場合の学習者は、中等教育終了者(日本語学校)、大学教養課程修了者(短期留学生)、大学や大学院修士課程修了者(大学院留学生)を想定することができる。かれらは、多くの場合自発的に日本語を勉強することを選択しており(学習のモチベーションが高い)、すでに「思考を鋭敏化した言語活動」を知っているしかなりできる。なので、自ずと「調整」をしたがる。

それに対し、国語教育(仮に、小学校高学年生、中学生、高校生、大学初年次生)の場合は、「思考を先鋭化した言語活動」への志向やモチベーションがあらかじめあるわけではない。その種の言語活動への態度の習得をも含めたところから指導しなければならない。「思考を先鋭化した言語活動」は、思考を集中しなければならない活動なので、かなりの強い態度や意思が必要。

7.日本語の習熟と日本語の言語技量

日本語の習熟というのは、現象! 日本語の言語技量をいかに育成するかこそが教育・指導的課題。


Ⅱ.


日本語で議論する場合に一般的に要請されているのは、相手に敬意を表してor立場を尊重してメンツをつぶすことなく、相手を持ち上げ、高評価し、挑戦するようにならないようにしながら、自身の考えを述べること。そのような態度で考えを述べるので、主張の明瞭さがしばしば犠牲になる。ゆるやかに議論する場合には、そんな態度で議論してもよいと思うが、真理の探究を旨とする学会などでは、対話者相互にとって「きびしい」ことになるが、そういう「やさしい」態度は敢えて「棚に上げて」クリティカルに議論をするべきだろう。Assertionの弱さ、criticalな思考活動や言語活動が、「日本語の議論の仕方」のウィークポイント。しかし、考えてみると、「日本語の議論の仕方」などという視線がそもそも変。「日本語の議論の仕方」などというものが客体的にあるわけではなく、議論するときは、議論するメンバー間のalienment(つながり、協力関係)も考慮しつつも当該の議論のシーンにふさわしい議論の方法というのがあるはず。例えば、「学会での議論の仕方」など。

そして、そのようにalignmentとシーンへのふさわしさに応じて議論のスタイルを柔軟に変えることができるのが本来の優れた言語能力でしょう。日本語(話者)の場合は、alignmentへの考慮・配慮が一般的に強いということになるとも言える。


Ⅲ.


日本語習熟論学会では、方言と共通語という話題も少し出ていました。「普段方言で生活をしている生徒には、共通語で作文を書いていると、生徒は何だか『気持ちが地についていない』感じがする」との発言。

端的に、共通語は、改まった言語、威儀を正した言語、あるいは「公的なお仕事言語」というふうに、方言とは異なる一つの言語(レジスター)だと、「やや皮肉を込めて」、「軽快に」捉えるのがいいように思います。書記言語ではそれが確立されていると言っていいでしょう。そして、方言は、同郷の仲間との「親密で」気のおけない会話で使用する言葉(もう一つのレジスター)。そんなときは、お国の言葉でこそ「親密」というalignmentが維持される。両者は、そもそもの使用される言語活動の領域が違います。

実は、共通語による書記言語というのは、生活言語が何であれすべての子どもたちにとって、「第二言語」なのだろうと思います。そのあたりが先の「軽快に」の意味です。一方で、共通語がドミナント(支配的)な場面で、方言的なアクセントを帯びた話し方で話してはいけないということはありません。方言的なアクセントを帯びた話し方をわざとできる人や、ときに方言の言葉をわざと交えることができる人は、堅苦しい威儀を正した雰囲気を攪乱することができます。「共通語圏」で育った人はそういう「高等戦術」はできません。これが、「やや皮肉を込めて」です。ちょっと「皮肉」の意味が曖昧ですが。

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