歌詞がおかしい!「およげたいやきくん」(1)
子どものころから、ずっと、「およげたいやきくん」の歌詞が嫌いである。
聞くたびになんとも気持ちの悪い感じがする。
まず、最初である。
まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの
うえで やかれて いやになっちゃうよ
たい焼きに意思があって自分で動いたりするのもおかしいが、そこを否定しては始まらないので、まずそこは認めるとしよう。
が、だとしても、たい焼きが毎日焼かれるのはおかしい。1匹のたい焼きは、1回しか焼かれないはずである。たい焼き屋のおじさんは毎日毎日たい焼きを焼いているだろうが、それは別のたい焼きである。でなければ、おじさんはそもそも何のためにたい焼きを焼いているのかもわからなくなる。普通は売るために焼いているはずであり、売りもせずに同じたい焼きを焼いているとしたら、このおじさんは相当異常な人物だということになる。それに、同じたい焼きを毎日毎日焼いていたら、そのたい焼きは水分を失い焦げていき、見るに堪えないものになるだろう。もしくは、カビが生えたり腐ったりもするかもしれない。そんなものを毎日焼いているたい焼き屋のおじさんは一人もいない。そう、一人もいないのだ。
だから、同じたい焼きが毎日焼かれるはずはないのだ。
毎日毎日別のたい焼きは焼かれるだろうが、一匹のたい焼きの視点からしたら、嫌になっちゃうという感情は持ちえないはずである。(注:たい焼き屋のおじさんの方は、毎日たい焼きを焼いて嫌になっちゃうことはありえるだろう)むしろ、各たい焼きにとっては、一生に一度しか焼かれることはないのであり、新鮮でエキサイティングな気分になるのではあるまいか。
あるあさ ぼくは みせのおじさんと
けんかして うみに にげこんだのさ
これも相当理解しがたい。
仮に、たい焼きが話ができて、店のおじさんと喧嘩した、という事実は認めるとしよう。
だが、海に逃げ込むには、海まで行かなければならない。
たい焼きに足はないと思うが、海まで歩いていくのだろうか?
それとも、陸に揚げられた生きた魚がぴちぴちする要領で、ぴちぴちしながら海まで行ったのだろうか?
おじさんが海から1m以内くらい近くでたい焼きを焼いていたなら、ぴちぴち戦法で海に逃げ込めるかもしれないが、そうなのだろうか?
はじめて およいだ うみのそこ
とっても きもちが いいもんだ
たい焼きが海に入ったら、気持ちがいいものであるはずがない。たい焼きの皮の部分がふやけてふにゃふにゃになり、そのうち海水に溶け出し、いずれはふわーっと拡散してしまうはずである。
おなかの あんこが おもいけど
うみは ひろいぜ こころがはずむ
お腹のあんこが重いはずもない。皮の部分がふやけて拡散したら、中のあんこが海水に溶け出す。重いとか軽いとかいう問題ではない。海が広いのは確かだが、心は弾まない。ぶよぶよになり、ふわーっと拡散してしまうのがどうして心が弾むのだろうか?
ここからしばらくの歌詞は、たい焼きが水の中で拡散していかないというたいへん不自然な状況を前提に書かれていて気持ちが悪いが、そこは飛ばそう。
ときどき サメに いじめられるけど
そんなときゃ そうさ にげるのさ
サメにいじめられるというが、サメは、人間が人間をいじめるように、他の魚をいじめて喜んでいるわけではない。サメは他の魚をエサとして食べてしまうのである。いじめられるから逃げる、という状況はありえない。まさに、生きるか死ぬかの決死の事態のはずである。そして、サメに食べられそうになっているのに逃げることはできないだろう。サメの泳ぐ速度以上に速く動けば、たい焼きにとっては水の抵抗が大きくなり、ふやけてぶよぶよになったたい焼きは、ふわーっと拡散してしまうだろう。
が、そもそも、サメなどという個体数も比較的少ない大型肉食魚を引き合いに出す必要はない。それ以前に、ふやけたりふわーっと拡散した部分を、おびただしい数存在する小魚に食べられてしまうことの方が、はるかに現実的な脅威のはずである。このたい焼きの言っていることは、完全に的外れでとんちんかんである。
たまには エビでも くわなけりゃ
しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう
だから、そう言ってるだろ。
海に入った時点でふやけてしまうのだ。
エビを食べるかどうかは関係ない。
(2)に続く!
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