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「生存戦略、しましょうか」

 文章を書いて年末年始を過ごすことが多い。少なくともここ数年は毎年何か書きながら大晦日を過ごし、何か書きながら新年を迎えている。どうしてそんなことをするのか、自分自身でもよくわかっていない。けれども書かずにはいられない。書いていると落ち着くから書いているのかもしれない。

 僕は日本文化の中でグレゴリオ暦に従って生活している。つまり国全体に漂う連続するハレの日的雰囲気と、そのイレギュラーさに揉まれて、年末年始を過ごしている。この空気が嫌いというわけではないが、落ち着かないことは確かだ。落ち着かない雰囲気の中でなんとか落ち着きを取り戻すために、年末年始に文章を書いているのかもしれない。

 しかし考えてみれば不思議なことだ。実家で年末のお笑い特番や紅白を見ながら鍋をつついているとき、人は落ち着いているはずだ。暖かい部屋で犬を抱いて寝そべっているとき、人は落ち着いているはずだ。僕は違う。全然落ち着いていない。お祭り気分で気もそぞろになっている、ということであればまだ理解できる。けれども、そういうわけでもない。
 どうしてこんなことしてるんだろう。時間がもったいない。何かやらないと。でも何を?
 紅白のけん玉チャレンジを乾いたコンタクトレンズ越しに見ながら、強いて言えば、そんなことをなんとなく考えていた。そしてどうにも耐えられなくなって、気を紛らわすために今こうして文章を書き散らしている。
 にしても、完全に毒気を抜かれた大泉洋はひどく不気味だった。

 2023年になる。「2023年」という字面には近未来っぽさがかなりある。けれども同じようなことを2022年にも2021年にも思っていた気がするし、覚えていないだけで、もしかしたら2015年だとかもっと前から思っていたかもしれない。年越しはいつだって近未来だ。
 2021年12月31日と2022年1月1日の間に劇的な差がなかったように、2022年の12月31日と2023年の1月1日の間にも劇的な差はないだろう。
 同じように、2023年の1月1日と1月2日の間にもきっと大きな変化はない。1月31日と2月1日の間にも、11月30日と12月1日の間にも、おそらく大きな変化はないだろう。そのような変化のない連続が一年なのだから、一年を通して平凡な時間が続くのは当然と言えば当然だ。いくら初詣で賽銭を投げ入れて、手を合わせていい年になるよう祈ったところで、大した一年にはならない。

 最近になってようやく実感したのだけれど、自らエネルギーを消費して自ら行動しなければ、望む変化はめったに起こらないらしい。少なくとも凡人の人生はそういう作りになっている。
 自身の衰えや環境の変化といった、自力で制御できない変化は勝手に進行する。その流れの中で自分の精神のみが取り残され、苔生して弾力を失ってゆく。最近、それが怖くてあまり眠れない。嘘だと思われるかもしれないが本当だ。絶対に元には戻らない時間の変化の中で自分の精神だけが変わらず、しかし確実にしなやかではなくなってゆくのが、とてつもなく恐ろしい。毎晩ベッドで目を閉じるたびにそのことで頭がいっぱいになって、抑えきれないほどの不安に駆られる。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 そう心の中で唱えながら、毎晩どうにか眠りにつく。

 どうにもならなくなって自死を選ぶ人がいる。最初から死にたいと思っている人はいない。最終的に死にたくなって死ぬのだ。僕はそうなりたくない。どうにもならない状態に陥りたくない。つまり、死にたくない。 
 漠然と生活している間にただ時間だけが過ぎ、なんの変化も起こらないまま、振り返れば惰性で30年、40年、50年経っていた。いまさら、どうしようもない。取り返しもつかない。僕にとっての「どうにもならない状態」とは、そのような状態のことだ。
 そうなってしまったことに気付いたとき、きっと僕は自死を選ぶだろう。自分の性格は知っているつもりだ。僕はそういう解決方法を選ぶような性格をしている。
 そうなりたくない。死にたくない。けれども、そうなるかもしれない。死にたくない。
 そんな死への恐怖から逃れるために、僕は生活の中で時折、不安定でリスキーな選択をするのかもしれない。

 「リスクを取って行動しよう!」
 みたいなことを声高に叫ぶ連中を冷ややかに見ている。現実が見えていないし、普通にアホなんじゃないかと思う。加えて自己啓発に似た有害さと不気味さが感じられる。けれども自分がリスクを取る人になってしまったので、昔ほどおおっぴらに悪口を言えないのが残念だ。
 彼らの言う「リスクを取る」と僕が思う「リスクを取る」が同じものであるとは限らない。その二つは切り離して考える必要があるかもしれない。

 思うにリスクを取るとは、問いを持ち、問いに対して仮説を立て、仮説の正しさを確かめるために行動するという一連の行為のことだ。
 あくまでも最初に問いありきだ。問いを持たず盲目的にリスクを取る人がいる。その成れの果てが、例えばマルチ商法の会員みたいな人たちだとか、自己啓発に傾倒してしまうような人たちだ。彼らは、問いを問いのまま抱えておくことができないのかもしれない。答えが出ない状態に耐えられないから、わかりやすい解決方法じみたもを目の前にぶら下げられると、つい反射的に飛びついてしまうのだろう。かわいそうに。
 閑話休題。話を戻す。

 例えば起業は「社会にこのような課題があるのではないか」という問いに対して「このような方法で解決可能なのではないか。そしてそれがビジネスとして成り立つのではないか」という仮説を立てて、それを検証する試みであると言える。個人的な挑戦は「こうすれば人生が楽しくなるのではないか」という問いに対して「このような方法で実現できるのではないか」という仮説を立てて、それを検証することであると言える。
 つまりリスクを取るということは、試行錯誤しながら、考えて生きるということだ。そしてそれは凡人にとっての生存戦略であり、凡人が凡庸な人生において生の実感を得るための手段だ。

きっと何者にもなれないお前たちに告げる

輪るピングドラム, TBS, 2011-07-08 (テレビ番組).

 実際の人生で誰かから直接そう告げられることは稀だ。自分が凡人であることは、自分で気付かなければならない。

生存戦略、しましょうか

同上

 生存戦略の存在には自ら気付かなければならない。僕らの生活にペンギン帽子が現れることは、絶対にないのだ。

 リスクを取ることが生存戦略であるということには、意外と気付きにくい。なぜならリスクを取るのは不快な状態に身を置く行為だからだ。
 「自分にとっての生存戦略とは、一個体として生き延びることのみならず、一自我として生の実感を得ることである」という意味付けの上に「リスクを取る = 生存戦略」という意味付けが成り立つ。しかし身も蓋もない言い方をしてしまえば、これらの意味付けは単なるこじつけに過ぎない。
 けれども、そもそも「意味」自体が人に作られた概念であってもともと存在するものではない以上、その上に何を積み重ねようがこじつけにしかならない。
 「意味」がまやかしである以上、世の全ては等しく無意味だ。けれども、悲しいかな、そこに砂上の楼閣をどうにか建てなければ何も始まらない。
 もしかしたら、しっかりとした固い地盤が世のどこかにあるのかもしれない。ただ、あるとしても、その土地は凡人のためのものではない。
 僕らは常に砂の上で生まれて、砂の上に立ち、砂の上で暮らして砂の上で死ぬ。どこまで行っても砂しかないような荒野で、どうにか自らの人生に対して自らが黎明となるしかない。

曇りのち疫病 君は荒野にてサイバーパンクの黎明となる

柳川晃平『曇りのち疫病』
https://twitter.com/koheiyngw/status/1589218194367320064

 金を貯めては何かに挑戦して、なんとか運良くリターンを得て、そのリターンを踏み台にまた金を貯め、また別のことにチャレンジしてみる。そんな生活を続けてきた。運良く続けられていると言うべきかもしれない。ある程度健康で、経済的な余裕を作る力があって、失敗してもダメージが少ない年齢で、守るものがないからできる生活だ。だから、ずっとは続けられない。続けられたとしても、それはきっとサンクコストでがんじがらめになって惰性で続けているような状態だろう。その終わりの見えなさに虚しさを覚え、きっと精神的におかしくなってしまう。
 『サイバーパンク エッジランナーズ』というアニメがある。高みを目指してサイバーウェアを次々インストールし、最終的には無茶がたたってサイバーサイコシスを発症して気が狂ってしまう登場人物たち。彼らになんとなく自分を重ねてしまう瞬間があった。

 生きるために変化を求めなければならない。半ば強迫的に僕はそう思っている。けれども変化にはリスクが付き物で、リスクを取るのはいつだって怖い。そもそもの目的を忘れていることがあったり、先のことを考えているようで考えていない瞬間があったりする。でも、どういうわけか、歩みを止めることができない。
 そういった全てを含めて、何もかもが怖い。

ただな これだけは分かるぜ
そんなものじゃ
あこがれは止められねえんだ

つくしあきひと, 『メイドインアビス』(3), 竹書房.

 今ならまだ引き返せる。常にそう思う。
 けれども試しに少しだけ引き返してみると、そのあまりの味気なさに言葉を失ってしまう。メインミッションもサブイベントも、何もかも全てクリアしてしまったセーブデータで再びそのゲームを遊ぶような感覚と似ている。

 自己啓発じみた自己実現を目指しているわけではない。あんなものはアホの極みだ。ただ、もしかすると、同じくらい頭の悪いことをしているのかもしれない。停滞を恐れて暗中模索しながら、堅実さを欠いた落ち着きのない生活を続けることは、真っ当な知性を備えた者の行為とは言えない。
 それこそ、ことごとく選択肢を間違った末にどうにもならなくなって、死を選ぶ未来があるかもしれない。日本では毎年約二万人が自殺しているのだ。いつかの年の二万人に自分が選ばれないという保証は、どこにもない。その種を今撒き散らしている最中なのかもしれない。けれども生きるとは、そもそも死に向かってゆくことだ。どんな過程を辿ろうと行き着く先は百人いれば百人とも同じだ。深く考える必要はないのかもしれない。

「君が死んだ後には、君が生まれる前に君があったところのものに、君はなることだろう」

ショーペンハウアー.『自殺について』(岩波文庫), 斎藤信治訳, 岩波書店, 1979.

たしかに生は夢なのであって、死はまた目覚めという風に考えることができる。(中略)死は我々にとって全く新しい見慣れぬ状態への移行と見做されるべきものではなく、むしろそれはもともと我々自身のものであった根源的状態への復帰にほかならぬものと考えられるべきなのである、——人生とはかかる根源的状態の一つの小さなエピソードにすぎなかった。

同上

 この世の全ての始まりについて、僕はよく知らない。しかし今この世に存在する全ての人は、この世の起点からその人が誕生する西暦n年までの膨大な時間「生きていない状態」だったはずだ。
 誕生し、八十数年の間「生きている状態」になり、そしてまた膨大な時間「生きていない状態」であり続ける。生きていない状態である時間と比較して、生きている状態で過ごす時間は一瞬の閃光にも満たないほどの時間だ。僕たちの意識はその一瞬だけ持続する。すぐに目覚めてしまう明晰夢のようなものなのかもしれない。夢だとわかっている夢の中で、そしてそれが束の間であると知った上で、誰がじっとしていられるだろうか。その束の間が過ぎれば自分が消えてしまうと知りながら、誰が動かずにいられるだろうか。

闇すらも及ばぬ深淵に
その身を捧げ 挑む者たちに
アビスは全てを与えると言います
生きて死ぬ
呪いと祝福の その全てを
旅路の果てに何を選び取り 終わるのか
それを決められるのは
挑むものだけです

小島正幸, 『劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明』, 角川ANIMATION, 
(原作: つくしあきひと), 2020.

 危険を承知の上で敢えて物事に臨むことで、僕は自分の中を深く潜ってゆけるのかもしれない。多くのものは自分の外側に存在するけれど、本当に自分が求めているものは、結局自分の中の最奥まで潜って掘り当てるしかない。外部からの入力によって「それ」は常に形を変えるが、常に自分の中のどこかに存在するはずだ。いや、存在していてほしい。そんな希望的観測に従い続けることが、僕にとっての生存戦略だ。そんな気がする。

Hope, it is the quintessential human delusion, simultaneously the source of your greatest strength, and your greatest weakness.

ウォシャウスキー兄弟, 『マトリックス リローデッド』, ワーナー・ブラザース, 2003.

 2023年の1月1日が、もうすぐ終わろうとしている。光陰矢の如しと言うけれど、矢どころではない。光の速さで今この瞬間が過去になってゆく。時間がない。だから戦「略」が必要だ。

 「生存戦略、しましょうか」
 今こそ声高らかにそう宣言する時だ。

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