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やがて哀しきフランス語―アテネ・フランセと青春の日々

 東京は神田駿河台。JR総武線の水道橋駅と御茶ノ水駅の中間あたり、そこに、周囲からひときわ異彩をはなっている建物がたっています。
 それが、アテネ・フランセ。フランス語をはじめ、古典ギリシャ語・ラテン語、英語を学べる語学学校として、ふるくから多くの作家や文化人がその門をたたいてきました。

 わたしは、2017年から翌年にかけて、ここでフランス語を学んでいた時期がありました。

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 ただ、思いかえしてみると、フランス語(とアテネ・フランセ)をめぐっては、単なる語学学習を超えた、個人的なメモワールというものがないでもない。今日は、そのことについてすこしだけ書こうと思います。

 わたしがはじめて「フランス語」という言語を意識したのは、浪人中のこと。当時、おなじ駿河台にある某予備校にわたしはかよっていましたが、そこで出会い、付きあうことになった恋びとが、フランス語を学んでいたのでした(一部の大学は、かならずしも受験につかう外国語が「英語」である必要がないんです)。

 その恋びとは、アテネ・フランセにかよっていました。それが、わたしとアテネ・フランセとの出会いでもあります。
 アテネ・フランセには、学生ホールとよばれるフリースペースがあります。わたしとその恋びとは、予備校の自習室や喫茶店をつかうこともありましたが、ときどきはその学生ホールに足をはこんで、めいめいの教材をひろげていっしょに勉強をしたものです。

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 その当時、わたしじしんは、フランス語を学ぼうという意思はいっさいありませんでしたが(英語を学ぶことに必死でしたから)、それでも、あるひとつのフランス語の詩句が気になっていました。堀辰雄の名作「風立ちぬ」のエピグラフに引用された、ポール・ヴァレリーの詩の一節です(「海辺の墓地」)。

"Le vent se lève, il faut tenter de vivre."

 宮崎駿が同名の映画において、主人公の堀越二郎にこの詩をつぶやかせている場面があります。それでこの詩をしっているひとも多いかもしれませんが、当時のわたしはこの詩がどうしても理解してみたく、恋びとに意味や発音のしかたを教えてもらったものでした。

 さて、けっきょくその恋びととの関係は半年ほどしかつづかず、わたしとフランス語との関係も疎遠になっていきました。
 
 それが、ふたたびフランス語と「再会する」ことになったのは、大学3年生になったころ。
 わたしは、大学・大学院と、小林秀雄という文芸批評家の研究をしていましたが、その小林の文学的出発におおきな影響をあたえたフランス象徴派の詩人たちの詩を、原典で読んでみたいというのがきっかけでした。

 とはいえ、けっきょく、独学ではじめたその勉強は、ほとんどなにも習得できないままやめてしまいました(半年とつづかなかった)。ですが、どういうわけかふと、社会人になってまた一からフランス語が学びたくなり、それでアテネ・フランセにかよいだしたという感じです。

 1年半ほどは通学したでしょうか。アテネ・フランセの独自教材も使いつつ、姉からゆずりうけた教材や、蓮實重彦の『フランス語の余白に』なんかも並行してあつかって、コツコツと勉強を進めていきました。

 が、終わりは、わりとあっけなくおとずれます。学期が進むたびに、だんだんとクラスの人数が減っていき、ついに定員割れを起こして、その講座が開けなくなったという連絡を受けたのです。
 もともと、とくになんの目的もなくはじめた学習。なので、その「半強制的な別離」に、ほとんどなんの痛みもおぼえることはありませんでした。

 以来、3年ちかく、ほとんどフランス語にふれる機会はありません。フランスのドラマや映画で耳にするていど。でも、ふいにフランス語のひびきを耳にするたび、ふしぎと、消えたはずの燠火にふっと息をふきかけられたような、ひそかな高揚感をおぼえます。
 
 フランスには、いちどだけ旅行したことがあります。おとずれた街は、パリ、リヨン、ニース。妻と付きあいはじめたその年の夏休みに行きました(アイキャッチ画像に使用した写真は、凱旋門からながめたパリ市街)。

 またいつか、フランス語を勉強したり、フランスを旅したり、そういう日がおとずれるんでしょうかねえ…。

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