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香りと単位と風土〜ながれる時間というインフラを考える

1. お香で時間をはかる文化について

江戸時代、人々はお香で時間を測った。お香の燃えるスピードが一定であることを利用して、おおよその時間を測ったのである。

寺の住職はお香を絶やさずにたき続け、少しずつ香りを変えることで人々におおよその時刻を知らせた。香盛という。それは江戸時代の住職の極めて重要な仕事だった1)。

お香によって時間を測れるのは、それだけ香の練り物が高いクオリティで作れたからである。日本のどこでもクオリティの高いお香が供給されたからこそ、こうした文化は可能だった。お香は時代のインフラでもあった。

有名な落語である「たちきれ線香」には、遊女が客の相手をする時間を線香の燃える時間で測る場面もある。線香一本分の時間きちんとお相手ができるようになったとき、遊女が一人前になったということになる。それが「一本立ち」という言葉の語源であるらしい2)。

ちなみにこの落語には、嫌なお客がやってきたときにお付きの人がこっそりとうちわで線香を仰ぐという笑い話もある。線香が早く燃えるために相手をする時間が短くてすむのだ。時間は正確なものというよりもむしろ、改変可能なものだったのだろう。

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近頃、時間があまりにも正確なものとして遍在しすぎているように思える。何をしていてもチクタクと秒針が進んでいるような気がする。ずっとストップウォッチが回っていて誰かに見張られているような窮屈さがある。少しずつ変わってゆく香りに時間を想いながら暮らすくらいのほうが豊かなのではないか。

2. 単位ではかることにより抽出される意味に目を向ける

時間には単位がある。僕らはあまり普段意識せずにいろんな単位を使っている。最近この単位という概念は、とても面白い概念だと思うようになった。

例えば大きな米の山があるとき、その山がいったいどのような意味をもつのか、すぐには僕たちには理解できない。しかし米俵という単位でその山を測っていくことによって、「およそ何年くらい家族が食えるな」とか「この村だと何ヶ月は暮らせるな」とか、そういった米の山のもつ意味が我々に理解できるようになってくる。単位はそのための概念なのである3)。

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インドには「牛の叫び」という単位があるという。牛の声が聞こえるほどの距離という意味らしい。あまりにも、牛ごとの声の大きさや人の聴力によりすぎないか?という感じもするが、ゆるやかな社会ではその程度でも十分なのかもしれない。他にもドイツには猫のひと飛びという単位表現もある4)。

これは僕の勝手な解釈だが、牛の叫びという単位を用いる時、日常生活の中に牛が存在していて、人々が容易にイメージできる共通感覚として牛の声の大きさが共有されている光景が目に浮かぶ。そうした文化的な理解を通して単位が捉えられることで、はかるという行為が実用性を備えることになったのだろう。つまり、メートルなどの単位よりむしろ、その文化に暮らす人々にはわかりやすい単位なのである。

世の中に遍在する「定性か定量か」という二項対立を軽やかに超えて、ちょうどその中間あたりにポンっと単位という概念が置かれてしまったように感じるところが面白い。

そのことによって単位の正確さは失われてしまった一方で、単位という概念の中に文化的なコンテクストが入りこむ余地が生まれている。そしてそれが、「はかる」という行為によって理解される意味内容を支えているのである。

現代では正確な単位ばかりが重視されるので、音楽ホールやスタジアムを評価するとき、何人収容できるか?といったことはしばしば議論される。でも本当のところ収容人数自体は、体験のクオリティとはおそらくあまり関係がない。数万人収容できるスタジアムに行ってもプレイヤーや歌手が遠すぎて結局大型のディスプレイしか見られないこともよくあるし、小さなジャズバーでも素晴らしい熱量を堪能できることもある。

むしろ、そこでの人の感動をうまく測れるような単位があるといいかもしれない。「行った3日後にも思い出して人に話したくなるくらいの感動」を1ディアウロスとするとか、そのくらいでいいのだと思う。そういう定性と定量のあいだにあるような新たな単位を設定しながら、街を考えていくことはできないか。

「正確さはどうなっているのか」と論じる人もいるだろうけれど、そもそも社会の単位は「牛の叫び」くらいのバランスで十分なのかもしれず、大事なのは正確さよりも、「はかる」ことによって、捉えられないものをなんとか捉えるようにすることそのものなのだ。

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滝沢カレンさんの料理本で、「床に落ちてるとじゃりっとするくらいの砂糖の量」とか「ビニール袋の中にいる鶏肉たちが全員気付くくらいの醤油の量」とか書いてあってこれもなかなか面白いなと思った5)。

現代の社会では、単位に対して正確さを求めるあまり、人々は「はかる」という概念の本質を見失っているのではないか、と思う。

時間をお香で測る行為が美しいと思うのは、時間そのものというよりもむしろ人々の生活と行為に主眼がおかれ、それを支えるように時間という概念が香りを通して人々の生活に添えられているような感じがするからだ。逆に正確な時計を用いて測る現代社会では、「はかる」という行為の本質が見過ごされるあまり、人の営みがむしろ時間に合わせて進められるようになっている。

単位は、それ自体の使いやすさや正確さだけでなく「はかる」ことによって対象からどんな意味を抽出したいのかということとセットで語られなければならない。その本質を、多くの人が見失っている。

3. 風土によって変わる香りと風土ごとの時間

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時計に合わせて都市を作っていくことによって、東京をはじめとする都市は極めて利便性の高い暮らしを実現した。しかしそこに窮屈さも覚える。正確な時間性は「管理」という概念と強く結びつく。会社の出社時間や電車の発着時間など、そこには常に脅迫的なまでの「管理」がある。だから都市での暮らしはどこか息苦しいのだろう。

都市はあらゆる可能性に満ちてもいる。そうした自由さと広大さは田舎にはない大きな都市の魅力かもしれない。でもそこに、正確なだけの単位は必要なのだろうか?

中沢新一は、地獄とは無限に続く反復であり、極楽とは小さな差異がずっと続くことではないか、と捉えた6)。

地獄の地獄たる本質とは、同じ刑がほぼ無限に繰り返されるその反復性にある。極楽浄土の美しい暮らしも、毎日毎日続けばやがて退屈になり苦痛になる。毎日毎日同じように時間が進むことは日常を退屈にするのではないか、という気もする。

香りは、湿度や温度などによって立ち上がり方と香り方が変わる。同じ香りでも、二度と同じ立ち上がりかたはしない。時間そのものが風土によって変化してしまうのであり、単位は一意ではなく風土と絡み合って変化してしまう。

秋の夜の香りと春の朝の香りでは、そもそも測れるものが違う。同じ単位のようでいて、香りは風土や季節によって全く異なる単位となるのだ。

江戸時代の人々は、香りの変化の中に、同じ時間は二度と流れはしないことを感じ取ったのかもしれなかった。時間は風土の中で常にうつろい続け、人々の暮らしに意味を添えた。時間とは、風土でもあったのである5)。

香りのような、自由な時間概念の流れる街で暮らしたい。それが香りでもいいし、雲でもいい。管理を逃れて、風土と対話しながら暮らしたい。風土と絡み合う時間を軸に添えながら、街を考え直してみたい。それこそが、画一的な近代のまちづくりから離れるための基本的な態度なのではないか、とも思う。

(終わり)

参考文献

1) https://iwano.biz/column/kotto/kotto_method/0331-kohdokei-new.html
2)   たちぎれ線香, youtube
3) 『つかふ: 使用論ノート』, 鷲田 清一, 小学館, 2021
4) 『単位の進化 原始単位から原子単位へ』, 高田 誠二, 講談社, 2007
5) 『カレンの台所』, 滝沢 カレン, サンクチュアリ出版, 2020
6) 『チベットのモーツアルト』, 中沢 新一, 講談社, 2003
7) 『調香師の手帖 香りの世界をさぐる』, 中村 祥二, 朝日新聞出版, 2008

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