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博士論文2022年8月の報告書。

あまりに長い暑い2ヶ月だった。クーラーの効いた部屋に閉じこもっていると身体が疲れてくる。夏が始まる前に体力を上げておかなくては、と改めて思う。とはいえ冬も冷える。身体の筋肉量と代謝は常に高い方が良い。7月に鰻を食べておかなかったのは痛恨事だった。菖蒲湯や柚子湯、七草がゆや鰻など日本の文化はやはり自律神経を保ちながら四季を過ごすためのものという気がする。そういえば寺は涼しかった。特に庭の周りはひんやり。庭はクーラーなのかもしれなかった。浄土教の寺は、形式として複数の庭と空間が入り組んでいる。そこにも季節との対話がある。

ある日の夕方に、図書館の中が嫌で前の広場で本を読んでいた。風が次第に涼しくなり心地よかった。夏にも涼しい時間はたくさんあるのだ。ふと日が落ちて涼しい風は止み、周囲を覆う木々が黒くなった。目を凝らしても文字は読めなくなる。外で暮らしてみると自然の時間に自分を合わせることになるのだなと実感する。自分のリズムや意志もまた、電気によって作られたものなのだと思う。

8月の終わりにはうっかりと風邪を引いた。6日間くらいの間37℃後半から39℃後半を乱高下しつづけた。途中で寒くなって布団にこもっていたら熱中症になり、汗が全く出ずに熱が上がった。コロナは陰性だった。ただの風邪ということらしい。『風邪の効用』という本で、風邪は様々な不調を一気に洗い流すものだという説を読む。川の歪みを正し不調を流す土石流のようなものか。身体に蓄積した季節感のないしんどさと不調が洗い流されたのか。笑えないけれど、あながちそういう側面は否定できないのかもしれない。2ヶ月はあまりに長かった。そして夏は終わろうとしてくれている。

京都ロームシアターでのパパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』観劇

8月11日に、ディミトリス・パパイオアヌーの『TRANSVERSE ORIENTATION』という演劇を見に行った。パパイオアヌーはアテネ五輪などの演出も手がけた世界的な演出家。

https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/columns_transverseorientation/
https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/columns_transverseorientation/

『TRANSVERSE ORIENTATION』は、あまりに自由な発想で大胆な演劇で驚いた。Twitterか何かで見かけて、VR的な世界観に思えてどうしても行ってみたいと思ったのだが埼玉での公演がちょうど終わってしまっていて、京都での公演がギリギリ取れたので向かうことにした。僕が観た日本での公演(最終日)だけは上演後にパパイオアヌーのアフタートークがあり、奇跡的に最前列に座れて質問することもできた。

観劇して驚いた表現はたくさんある。初めに出てくるのは細く、取れる頭がふわふわとついた抽象的な人間であり、演劇において人がイラストのような抽象的な人として存在していいということに驚いた。

https://www.greecejapan.com/jp/?p=79127より引用

あるいは、大きなライトを客席に向けて逆光にして舞台上を見えなくしてセット転換をしつつ、セットが整ったらライトを回転させてサーチライトのように演者をうつし影を壁に投影するというアイディアも驚いた。

https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/columns_transverseorientation/

何より演劇の最後に、それまで大きな舞台であったものの下に実は大きな水溜りがあり、舞台の床板がどんどんと剥がされて水が現れ、その積み上げられた床板が岩に見立てられてその水溜りが海と見立てられるという発想にも驚いた。そしてモップを持ったおじさんがやってきて水の底を掃除していたら、それでおこる波が海の波になり、穏やかに壁に当てられたライトが夕日になる。装置のあり方の読み替えと見立ての展開の中で演劇が進んでいくという手法が面白かった。

https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/columns_transverseorientation/

とはいえ演劇全体に意味のようなものがあるかというとおそらくあまりない。言葉もないし、物語のようなものもない。むしろ面白いシーンの連続だけでできている。それだけで1時間半もつのだからすごい。演劇の作り方についてパパイオアヌーは、何かわからないところから物を触ったり動いてみたりしながら面白いもの=素材を集めていって、締め切りが来たときに、それらの素材をその素材から作れる一番いい料理に仕立て上げるように作っていると話していた。

その結果いろんな意味のようなものの余白もあり、いろんな人がいろんなことを言う。アフタートークでは強そうなおばちゃんが「この構成は労働と遊びの対立を表現しているのでしょう」とか「その背景にはギリシャ(パパイオアヌーがギリシャ出身)の破産があり、それを表現しているのでしょう」とか色々と語っていたのだが、返答の段になってパパイオアヌーが全部「No(そんな意図はない)」と答えていて笑ってしまった。でも確かにそのように様々に読みたくなる面白さは確かにあった。同時に様々な自由な表現が持ちうる意味のありようについては、白人至上主義すぎる演劇表現だとか、色々と批判もあったようだった。

それでも(確かにある一定の配慮に欠ける部分は見出せるにせよ)、表現の自由さと大胆さにおいて僕は度肝を抜かれた。楽しかったし美しかった。パパイオアヌーの作り方に対しても、楽しい作り方だなと思った。研究としてもそういう面白いモノだけを素材のように見つけてきて、料理としてアレンジするというあり方が好きだから共感できたのかもしれない。

研究においては、いくら面白い素材を集めたと言っても、論文にするには論文としてのルールは厳格にあるし、その基準をクリアするという点で困難はある。しかし研究でも自分の頭の中でルールを組み立ててそれを運用するというようなあり方よりは、感性に沿って面白い物を発見して組み立てていく方が楽しいとは思う。僕はその素材への感性を言語化すること、あるいは素材の組み合わせや抱き合わせによる止揚を通して新たな意味を作り出していくこと、それらの作業をこそ研究と捉えたい。演劇を見ながら改めてそんなことを思った。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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