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研究日記2024年5月の報告書。

今月も実に暇だった。暇すぎて心の調子を崩した。そんなことってあるのかと思った。いや暇すぎたせいなのかはわからないけれど、とにかく調子は変だった。5月の中旬くらいに、毎日驚くほど頭が痛く、やる気は出ず、上半身の両腕あたりの表面が、熱を出した時のようにおぼろげで悪寒が走り、座っても寝てもいられなかった(と言っても熱はないし、下半身は普通だった)。白花油を額に塗り、親の仇のように香をこれでもかと焚き続け、頭痛薬をしこたま飲み、リポビタンDをごくごくと何本も流し込んでなんとか座っていられるという有様だった。外に出ると、泥酔した時のようにずっと焦点が定まらず、視界はぼやけていて、頭の隅の方でなんとか(こっちに歩けばいいんだよな)とか考えながら体を制御しつつ進んでいくというような状態だった。

5月の後半にかけて、とある申請書の期限があり、気合いで集中を始めたところ徐々に調子は戻って行った。人間は「いつまでも走れ」と言われると多分数kmくらいでへばってしまう。10km走れと言われると必死に走ることができる。それを何度か繰り返すことで、数十kmとか数百km走ることができる。目標を適切に分節しないと、たったの数km走ることさえ難しい。そのことを改めて実感した気がした。

ちなみに5月末には、寝ていたにも関わらず起きたらひどい船酔いのような状態になっていて、目を開けていても閉じていても世界がゆらゆら揺れているというのも経験した。かなり気分は悪かった。数時間で収まってよかった。


作業時間のこと

記録をもとに計算してみると、先月(2024年4月)の作業時間がトータル274時間ほどで、今月は275時間ほどだった。特に生活の規則があるわけでもないのに割とぴったりになるのは、僕が一ヶ月のんびり生きているとこのくらいの作業時間になるということなのだろう。『新建築』の原稿やコンペの追い込みをしていた今年の1月は、正月休みが数日あったにも関わらず作業時間は総計で320時間ほどだったので、50時間ほどの差があることになる。来月はもう少し上げて、300時間ほどを目安にできればと思う。まあもう少し頑張りましょうねという感じがする。

今月読んだ本

『トイレ排泄の空間から見る日本の文化と歴史』
『トイレ考・屎尿考』
『木』(幸田文)
『Adrian Frutiger : Typefaces. The Complete Works』
『建築虎の穴見聞録』
『独立自尊: 福沢諭吉と明治維新』
『江戸かわや図版』
『The art of 君たちはどう生きるか』
『はかりきれない世界の単位』
『陰翳礼讃・文章読本』(再読)
『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』
『ウェルビーイングの設計論』(まだ途中)
『個室 引きこもりの時代』
『さようであるならば』

今月行った展覧会

横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」

東京から横浜までのんびりと行っていたら、のんびり行きすぎて電車を間違えたり、駅前でハンバーガーをゆっくり食べすぎたりして見る時間があまりなくなったのは失敗だった。横浜トリエンナーレには6年前にも一度行った気がするが、相変わらずこの催しはよくわからなかった。横浜美術館はリノベーションされて、トイレなどは綺麗にはなっていたものの、相変わらず使いにくそうな美術館だった。展示の内容は、海外色や政治色が強く全体的に言いたいことは理解できる(表現としてはわかる)のだけど、それをその形式で言ってだからどうするの?と思うものが多かった。

はじめてハードロックカフェにいった。ボンジョヴィやなんかが大音量で流れていて、ぼーっと聞きながらハンバーガーを食べていたら時間がいつの間にか経っていた。コーラはおかわりした。
この空間、いつも動線がわかりづらいし展示順序もわかりづらい気がする。オルセー美術館みはあるけど、オルセーはもっと吹き抜けが気持ちよく、動線も(メインの部分では)明快だった。
昨年訪れたパリのオルセー美術館。鉄道駅舎のコンバージョン。

展示の中で僕が(ほとんど唯一)興味深かったのは、グシェコフスカという作家の、犬に面をつけた作品だった。これは母の半身を人形で作り外へ連れ出して遊ぶ女の子の姿を収めた作品を制作している作家の一部だった。犬の意思がそこに存在するように「見立て直される」というところが面白かった。つまり、犬が首を振った時、ただ首を動かしただけなのに、面をつけていることで人間には「こっちを向いた」とか「憂いている」とか新しい意味が見出されて付与される。そのような、そこに存在しないはずの意味を面によって立ち上げ、それを楽しむ、というあり方が興味深かった。

なんか憂いているようにみえる。
犬なのに人間的。人面犬でなく、マスクをつけているというのが重要なのかもしれない。人が狐の面をつける能はあるが、犬が人の面をつける能はみたことない。
グシェコフスカの別の作品。母の人形とともに遊びに出かける女の子。これも興味深かった。
存在とは、と問うている感じがする。

東京都現代美術館の展示

東京都現代美術館で実施されている、「翻訳できないわたしの言葉」展と「ホー・ツーニェン エージェントのA」展をみた。

「翻訳できないわたしの言葉」展では、鈴の作品が面白かった。箱にたくさんの鈴が入っていて置いてあるだけなのだが、それを手のひらに載せ静止せよ、と注意書きがある。実際に鈴を抱えて静止しようとやってみると、いくら体を静止しても、おそらくはちょっとした揺れやそれまでの揺れ、呼吸などのせいで、鈴の音なのかわからないようなさざ波のような音がシャーっと続いているのが聞こえる。体を止めようとすればするほどに自分の体の動きが感じられてしまう。そこに立ち上がる音の不思議さが面白かった。

あとは同じ作家の、紙をゆっくり破り、その音に耳をすませという作品の体験もなかなか面白かった。僕らの世界には、(聞いているはずなのにも関わらず)聞いたことのない知らない音で満ちているのだと気付かされた。

「ホー・ツーニェン エージェントのA」展も非常に面白かった。ここでは京都学派を具体的なモチーフとしつつ、時間がテーマとなっていた。例えばいろんなアニメーションが同時に展示されている空間て、アニメーションには揺れながら空を飛ぶ矢やよくわからない回転体などが表示されている。それらは全く異なる質の時間を提示しているが、全体としてはリズムが一致している。時間というものの個別性と普遍性について体感できる展示となっていた。

スクリーンを用いたAR作品。
質は異なるが関連する時間を同時に体感できる展示。

また、VRの作品が良かった。身体の状態の変化によって、徐々に視点が上下移動し、4つの世界を行き来するというものであった。ゴーグルをかけて座っていると、料亭で京都学派の有名な4人の学者が議論している場面に速記者と立ち会うことになる。そのまま静止して動かないでいると、よくわからない抽象的な空間に飛ばされ、西田か誰かの抽象的な言葉がぐわんぐわんと響く。首を動かすと料亭に戻る。そしてその場で立ち上がると視点は徐々に上昇して、やがて空へ登り、どこかのロボットとともに空を飛ぶことになる。座ると戻る。横になると、視点は徐々に下降して4人をしたから眺めつつさらにくだり、いつの間にか牢獄の一室の中で横たわっている風景になる。そのように視点を行き来していくのである。

これを体験して面白かったのは、何かMtgに参加していてうっかり考え事を始めてしまい、別の状態に入り込むような体験が、VRの中で再現されているように感じられたことだった。つまり集中している時は時間が長くなったりあるいは早くなったりするような、そのような時間の歪みのようなものが、体験の中で再現されているように感じられたのである。京都学派の主題、我々の時間とはどのようなものか。そういうことを展示を通して体感しつつ考えられるのは面白かった。

また、同時にその作品を体験していたのは、なぜかみな外国人だったのだが、コンテンツが完全に日本語だったのでほとんどわからなかったのか、体験を終えてゴーグルを外すと僕一人がポツンと残っていたのは、時間の歪みのようなものを感じないわけにはいかなかった。それはそれで興味深かった。

Morph inn

表参道でされていた、人工筋肉によるインスタレーションの体験。体験できたが、僕にはいまいちよくわからなかった。人工筋肉で動く掛け布団のようなものをかけられて揉むような動きをされる。なんだか水のうえに浮いているような感じもしてそれは不思議だったが、動きを拘束されているような息苦しさもあった。自然界にある動きから特徴点を抽出し、次元圧縮して人工筋肉の動きに反映させているらしかったが、理由はよくわからなかった。

子宮の中のイメージらしい。

nomena「まだ意味のない機械 ― phenomenal #03」

これはめちゃめちゃに面白かった。展覧会のタイトルの通り、何に使うのかは未だ不明な機械が複数展示されていて、それがずっと動いている。まず動きが面白い。ずっと見ていられる。そして立ち姿が美しい。見入ってしまう。そしてこの動きはどのように作られているのだろう、と仕組みが気になってくる。なんとなくこうなのかな、とは思うけれど、そんなことでこんな綺麗になるのかしら、とも訝り始める。色々考えながらずっと見てしまう。気がつくと時間が経っている。

「時間」が重要なテーマだったのではないか、という気がする。たとえば、ひたすらゆっくり倒れていく箱が展示されている。普通に考えると重力がある空間ではあり得ない動きのように見える。でも、次のように考えてみることもできる。もしも世界がスローモーションで動いているように見える人がいたとすれば、物体が倒れる様子はこのように見えているのではないか、と。つまり物体の動きそのものに介入することによって、その場にある時間を引き延ばし、そこだけ時間が遅く流れる場が作り出されているようにも感じられるのである。その時間の歪められた場の中に僕らは留められ、ゆったりと動くその物体と同じように、長くじっと物体を眺めることになる。あるいは実は一瞬しか経っていないのではないか、という気すらしてくる。物体に対してあくまで物理的に介入するという客観的な行為によって、我々の場の感じ方、そこにたゆたう時間の流れ方を改変してしまう、というあり方が実に鮮やかだった。僕にはそれが面白かった。

この興味深さは、カラフルなボックスの断片群がゆったりと開いたり閉じたりする作品にも見られた。これは初め止まっているのか動いているのかよくわからないのだが、次第に狭まっていくことに気づく。そして見つめ始めると、そのゆったりとした動きの中に意識が閉じ込められ、最後までじっと見つめてしまうのである。これも、物体の動きが、僕たちの時間の体感を変化させる素晴らしい例だった。

曲面をもつ物体がふわふわと浮かび上がりながら、時計のように回転していく作品も、その無重力感と「回転はする」という確かさのアンバランスが面白くてずっと見ていられたし(それは針の浮遊する時計のようにも見えた)、細い棒の先端に青い石が取り付けられ、それが振り子のように揺れながら、ちょっとずつ回転していく作品も、このような細い棒がビヨンビヨンと揺れすぎることなく揺れつつ回転している奇妙さと、回転しながら時間を表現しているようなある種の確かさらしさのアンバランスが不思議な作品だった。また、分光する膜に光が当たっているだけのように見えるのに、手前のカラフルな波は膜の動きとリアルタイムで連動し美しい模様を描きつつ、壁に映った側の光はそれよりももっとゆったりとした時間で揺れているように見える作品も実に不思議だった。たったひとつの機械からいくつもの時間が引き出され、描写されているように見えた。

何より、7つの時計のギミックが連鎖的に関わり合い動き続けるという作品は、部分部分もとても美しいし、動きの差異も面白くてずっと見ていられた。最初に中心にある時計の秒針がてっぺんをさすと、その針が真上のギミックを作動させ、そのギミックの動きが次のギミックを動かす、というように動きが連鎖する。単体のギミックが動いている(ように見える)こともあるし、複数のギミックが同時に動いてリズムを刻んでいることもある。それぞれのギミックは時計の中の歴史的にイノベーティブな発明らしく、それらを組み合わせて作られているらしいが、おそらくは一つの時計には一つのギミックであるだろうのに、いくつものギミックが関わり合い、まるでいくつもの時計が互いに連鎖し合いながら動いていく様子は、いくつもの時間が互いに関係しあい連鎖し合うような、不思議な時間の風景のようにも思われた。

他にも興味深い作品はいっぱいあったが、展示には子供たちもたくさん来ていて、その光景もとても素敵で良かった。水に不思議なギミックが浮いている作品では、ある男の子が「匂い嗅いでいい?」と言い出していて、周りの大人は困惑していたが、目線を下げてみると確かに作品からプールのような匂い(水道水よりも濃いカルキのような匂い)が漂ってきていた。目線を下げるだけでそこには違う世界が流れているのかもしれないと思った。また、カードを一枚ずつ吐き出すことのできるギミックを手で動かすことのできる作品では、小さい子供がカードを乗せずにギミックを動かし始め、しかしその方がギミックがどのように動いているのかが分かりやすく、子供って天才だなあと思った。

いろいろと発見があって面白かった。

子供が匂いを嗅いでいい?といっていた作品。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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