見出し画像

受賞論考の全文公開~Experiential Facadeという概念の提示と考察

この論考は、僕が2019年の10月ごろに1か月ほどかけてちまちまと書いたものだ。

「片岡安賞」という論考の賞に入選したので、せっかく書いたし、ひとまず全文公開してみようという気持ちになった。

僕はすごく力を入れて書いたし、近しい人たちからはかなり好評だったけれど1万3千字もある真面目な都市についての論考を一体誰がnoteで読んでくれるのかしら、とは思っている。

それでも、きっとUXに関わるデザイナー、建築やまちづくりに真剣にかかわる人間にとってはとても興味深く読んでもらえる内容になっていると思う。

テーマ・審査員のコメント・応答

画像9

論考コンクールでは「建築におけるダイバーシティとは」というテーマが設定されていた。

そもそもこのコンクールは一次審査を経て最終プレゼンテーションを行い、そこでの議論などを通して賞を決める、という枠組みだった。

しかし3月のプレゼンテーションは中止になり、結果として1次審査での論考の文面だけで結果を決めることとなった。

最終プレゼンテーションに通過していた3作品のうち入賞したのは1作のみで、そのために『建築と社会』2020年6月号には2ページにわたって僕一人の作品へのコメントのために紙面が割かれ、ものすごく長いコメントが全審査員から寄せられることとなった。

これは僕にとってとても幸運なことだった。

結果は「佳作」だったのだが、総評には”「片岡安賞(最高賞)」から「賞なし」まで意見が分かれた”とあり、面白い。

”数度の意見交換を経て、審査委員長の「佳作」提案に、全審査委員が同意して最終決定とした。”らしい。

コメントには褒めてくださったうえで具体的な改善点を示してくれているものからほとんど「生理的に受け付けない」みたいな辛辣なコメントまであって、興味深い。

コメント内の太字は、個人的に気になったり、嬉しかったり、あるいは感じ入った部分につけた。それぞれに対して詳細に返事をすることは避けて、今後の論考の執筆を通してしっかりと応答していきたいと考えている。

審査員のコメントは次のようなものだった。

(コメントはすべて、『建築と社会』の2020年6月号より引用。)

岩前篤(近畿大学教授)
 本年度応募の中では主張の明確さ、論述のスピード感事例解釈による説得力の強さが目立った論考であった。論述構成、文章表現、それぞれにこういった文章を書くのに慣れている印象を与えるが、それゆえに使用する言葉の定義の厳格さと論旨の展開にはもう少し繊細さが望まれる。拒絶、という多様性の否定とも取れる言葉を主題とした点で、論点は面白い。5つの事例による論拠の展開も興味深い。しかしながら、虚実の空間におけるExperiential Facadeの定義を再考する必要はなかったか、Facadeが曖昧になったとき、拒絶とは何を意味するのか、多義性を持つ言葉から生まれるイメージに少し論述を委ねすぎたように思える。結果的に、論旨の結論には疑問を抱かせていることが残念であった。多義性が聞き手に豊かなイメージをもたらしたであろう口頭プレゼンテーションを聞きたかった論考である。
勝山太郎(日本建築協会編集委員長)
 現代、将来における多様性の意味を問い直し、興味深い実例分析とともに、「受容と拒絶」、「体験」をキーワードとして、新しい建築の可能性について、わかりやすくかつ明快に纏められている。筆者が提案する建築と体験の新たな融合のあり方:「Experiential Facade」の実例として挙げられているものには、一見、建築との直接的な繋がりが見えにくいものもあるが、その中に共通して、ここでも一見、多様性とは繋がりにくい「拒絶」という概念が介在していることを見出している。その意外性がありながら、建築× UXデザインの可能性が一つの切り口で示され、結果として新たな多様性の獲得に繋がっていくという論考の流れは、興味深くかつ説得力のあるものであった。「Experiential Facadeを効果的にデザイン」することは「建築家でなければできるはずがない」という記述にあるように、建築の設計者が指向している様々な動きに対して、新しい視点を示しながら、エンカレッジしてるととても前向きな論考の内容であると思った。若干、記述に緻密さを書いている部分があったが、建築におけるダイバーシティというテーマに対して、デザインの領域から真正面に取り組まれており、筆者の高い力量を感じた論考である。

(すごい褒めてくださっている気がする・・・!)

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)
 「ダイバーシティ」という言葉の偽善性を問い、多様性という言葉の新たなイメージを定義しようとした論考として興味深く拝読した。
 著者はまず、建築を介しながらもそこに新たな仕掛けが加わることでこれまでにない経験が立ち現れる5つの事例の状況を「Experiential Facade」という言葉で整理した上で、そこには多様性の受容を前提にした「ダイバーシティ」という言葉とは一見矛盾する「拒絶」という行為が介在していると指摘する。そして、各事例で生み出された新たな経験は、それぞれ何らかの「拒絶」を受容することによって生まれており、そこにこそ通俗的な「ダイバーシティ」解釈とは異なる「多様性への応答と出会い」の可能性があると結論づける。
 さまざまなことを考えさせる筋書きだ。このような語り口はいわゆる「メディア論」的考察に分類されるだろうが、その分析手法を、多くの他の論考のように揺れ動く社会現象にではなく、揺れ動かない建築という物質の解釈へと応用している点に興味を持った。
 残念に思ったのは「最後に」ワイングラスのステムが生む不安定さ」という最後の節である。これは不要だったのではないか。それまでに広がったイメージを矮小化してしまっている。むしろその直前に書かれた 「Experiential Facadeを効果的にデザイン」することは「 DIY にハマる一般人でも AI でもなく建築家でなければできるはずがない」という部分を展開し、著者の主張する「多様性への応答と出会い」は通俗的な「ダイバーシティ」解釈とどう違うのか、そしてそれを可能にするという「建築家」とはどのような存在なのかを具体的に説明してほしかった。

(動くものに対して向けられる手法を動かないものに対して向けた点に興味をもった、というのはすごくなるほどと思いました。伊東豊雄さんが、「多くの人は水面にたてる杭を建築というが、僕はむしろ杭によって生まれた渦を建築と捉えたい」という趣旨のことを書いていたのと僕の中ではリンクします。また原広司さんの様相論ともリンクしました。この動く/動かないの対比の中から生まれる視点については、もっと深掘りしていきたいと思っています。ワイングラスについては、後半の「最後に」の補足、に書きました。)

弘本由香里(大阪ガス エネルギー・文化研究所)
 ヴァーチャルとリアル、そして市場メカニズム。論考7は、現代の社会を捉えるにせよ、現代の建築を捉えるにせよ、避けて通ることのできない関係領域でありながら、建築と社会という視点に立った時、十分な議論が行われているとは言い難い領域に目を向けられている。その点は、評価に値するチャレンジであろうと思う。さらに、「拒絶」というキーワード、「承認」や「包摂」や「共生」の対極にある強いイメージの言葉を用いる表現方法にも、ストーリーテラーとしての巧みさが感じられる。
 しかし、同論考の根幹ともいえる、「拒絶」という補助線によって対象を捉えなおす手法についていえば、たとえば演劇やアートの世界では、類似するアプローチが確立されており、その着想が画期的とは受け止めにくい。また、そもそも建築は、その成り立ちからして、何かを拒絶する機能を濃厚に内在させている。建築というものが歴史的に、社会環境の中で拒絶や排他と、包摂や共生との間で葛藤を繰り返してきた存在だと考えてみると、拒絶からダイバーシティを問い直そうという意気込みだけでは、論としていささか頼りない。同論考の事例の背景にある、人々の暮らし、社会・経済をはじめ多分野の実践や研究の蓄積へ、もっと踏み込んで考察を深めて欲しかった。
 末尾にわざわざ書かれている一項は、著者の姿勢を表すものと思うが、明らかな事実誤認(ワインのステムの歴史に関して)があり、歴史を記述される際には、慎重かつ謙虚であってほしい旨を申し添えておきたい。
舟橋國男(審査委員長 大阪大学名誉教授
 デジタル/バーチャルな世界に着眼して、観念的で独り善がりの感はあるが修辞に満ちたこの文章は、一つの主張として何らかの「賞」に値する論述であると考える。
 本論考の中心的テーマである、「多様性受容の拒絶から新たな多様性へ」という主張が十分には論じられておらず、また、建築や都市のあり方・姿については、具体的でも実証的でもない。一例を挙げれば、「車椅子ユーザー」に関する記述からは、「拒絶」のデザインが「新たな可能性を照射していると理解すること」はできない。
 そもそも筆者が自明としている「user」・「UX」・「experience」なる重要な概念自体を、今や問い直すべきときであろうと考える。
 更に付言するなら、「多様性への応答と出会いのこれから」における、「建築家でなければできるはずもない、」という結論について、「建築家」観念を過大視した筆者の驕りの意識を私は「拒絶」し否定したい。
 指摘されている参考文献の誤読や事例解釈の適否以外にも、テーマに密接に関連する分野について、その動向、参考文献・資料等への適切な言及を欠くこと、またそこにない潜在している(広義の)建築と社会に関する筆者の認識構造はやはり本質的な問題の一つであると考える。

(どうでもいいけど、”観念的で独り善がりの感はあるが修辞に満ちたこの文章は、一つの主張として何らかの「賞」に値する”って、感情がすごくよく見えるテキストだなと思った。
しかし、たった1本の論考で、”潜在している(広義の)建築と社会に関する筆者の認識構造はやはり本質的な問題の一つ”とまで言われるいわれはない。)

山浦晋弘(安井建築設計事務所)
 本論考は、従来の既成概念としての「多様性」を否定しその意義や意味を問い直すことを試みたものである。導入部から引き込まれ、一気に読ませる論考になっていてわかりやすい。その中で、筆者は建築デザインの対象を従来の「形」から「体験」に拡げることによって真の多様性を獲得できると主張している。
 それに対し、「拒絶」という一見ネガティブな言葉を手掛かりとした視点の明快さ、5つの興味深い事例について「Experiential Facade」という共通項を捉えた考察の説得力を評価したい。また、筆者は「拒絶と受容の狭間に矛盾を生み出す」ことによって、多様性の主張で溢れる現代社会に対して疑問を突きつけるとともに、新たな多様性を浮かび上がらせている。
 不満に思うのは「Experiential Facade」ができるのは建築家だけだといきなり結論付けてしまっている点である。どうして「建築家でなければできるはずもない」とまで言い切れるのか。その根拠を示すべきではなかったか。せっかく建築デザインの多様性を再定義していながら、それを行う主体に多様性を認めないのも残念である。
 最後のワイングラスの一節は、映画や小説のエピローグを意識して技巧に走りすぎたのか、読んでいてこじつけ感が強い。むしろ原稿用紙1枚半にも相当するそのスペースを筆者の考えで埋め尽くし、読者を説得することに充てていれば、論考としてもっと良くなったと思う。

とても嬉しい評価、感じ入った指摘から、咀嚼しきれていないコメントまである。

審査委員長である舟橋さんが、この論考をなにか生理的なレベルで気に入っていないことがなんとなく感じられる。それでも”なんらかの「賞」に値する”と書いてくれたことは嬉しい。

この論考では、これからの都市デザインの対象として「Experiential Facade」という言葉を定義し、その内容を深めていっている。

Facade(ファサード)というのはいわゆる建築の立面のことで、端的にいえば外観のことだ。

そうした外観を、物理的な側面からではなくあくまでUXとしてどうとらえられるか、そしてどうデザインしていけるかを具体的に考えていっている。

それで「そうした新たな体験をクリエイティブにデザインしていけるのは建築家しかいないはずだ!」と書いたら、コメントのなかに複数あるように、「根拠がない」「驕りだ」と指摘された。

けれど勝山さんがきわめてポジティブな言葉で表現してくださっているように、これは建築家への皮肉であり、同時に、建築学生への皮肉でもある。

多くの建築家も建築学生も、新たな建築家像を構想しながら、いつも議論は「建築」という狭窄なフレームの域をでない。

だから「僕はそうはならないぞ。建築、まちづくり、ビジネス、UXを横断しながら、しかし具体的に構想しデザインしていくぞ」と書いたのだ。

この論考は書き終わってから半年ほどたった。その間にすでに倍くらいの分量になりつつある。

改めて読むと、3月に中止になってしまった最終プレゼンテーションの場を意識し過ぎた余計なフリや、思索が全く至っていない部分も多い。

それでも、ひとまずは途中成果物でもあるので、コンクールに応募したときの論考をそのまま公開することにした。

以下は本文が長々と続くけれど、もし思いついたことや、感じたことがあれば、noteでもTwitterでもDMでも、なんでも送って下さるととても嬉しい。

「拒絶からはじまる人と建築の出会いのデザイン
~Experiential Facadeのデザインを通して多様性の受容を再考する~」全文

テキストデータミニ_水色

一応本文を丸ごと載せていますが、長いので、提出したPDF版はこちら。

はじめに:Experiential Facade~人の建築の出会い

 人と建築の出会いについて考えたい。
 車や電車から建物のファサードがみえたとき、「やっとその建築に出会えた」と心が躍る。しかし建築のファサード(顔)だけがユーザーに第一印象を与える要素ではない。古来では歌やうわさが恋人の出会いのはじまりとなったように、人と建築の出会いにおいてもそのタイミングや形態はさまざまにありえる。
 近年では建築デザインを建物の形のデザインというよりはむしろ体験そのもののデザイン(User Experience、ユーザーエクスペリエンス)として捉える傾向が強まっている。UXデザインは領域横断的で複雑であり、しばしば「超総合格闘技」と表現される。
 建築の現場においては空間設計のみを考えるのではなく、運営や管理、ときには事業モデルや収益計画まで一緒に考える必要もあるなど建築家が設計の対象としなければならない領域は拡大してきたが、それに加え現代では、Webサイトや写真、SNSでの投稿などでユーザーの中に生まれる建築に対する“イメージ”もまたデザインの対象でありうるのだ。
 建築物での体験とその周辺も含めた幅広いUXの中で、建築が立ちあらわれてくる瞬間の、立ちあらわれ方とその姿を「Experiential Facade (体験としてのファサード)」と呼ぶことにする。Facadeとは建築において立面のことであるが、Experiential Facadeは物理的な特徴というよりはむしろ体験そのものをさす。

事例1:空間の意味を読み替えさせる(The Wrong Gallery)

 具体的に考えよう。
 ニューヨークにThe Wrong Galleryというギャラリーがある。それはたった一平米だけのギャラリーである。ポツンとアート作品が置かれているのだが、狭すぎるがゆえに、それはまるで都市のクローゼットのようにみえる。
 訪れた人々は作品についてギャラリーの中では対話できないために、その前にぽっかりと存在する道路を自分たちのための対話空間として読み替えてしまう。このクローゼットのようなギャラリーがあることで、それまでただの道路空間だった場所はまるで人々のための“リビング”のように読み替えられる。The Wrong Galleryをのぞく体験は、人々が見出す対話空間というギャラリーの拡張空間へのExperiential Facadeなのである。「人が入れない」体験を通してはじめて認識される空間がある。

事例2:オンライン空間とオフライン空間の相互作用から生まれる体験(Glossier)

 Glossierはアメリカのミレニアル世代をメインターゲットとした新しいコスメブランドだ。D2C企業のひとつである。
 D2C(Direct to Consumer)とは、近年米国を中心として注目される新たなビジネス形態をさす。オンラインシステムを徹底的に活用して自社で製造した商品を直接ユーザーに届けつつ、SNSを活用してプロダクトに関わる人々のコミュニティを醸成しカルチャーをもつくりあげていくというデジタルネイティブの申し子的なスタイルである。
 D2C企業では流通や商品管理があらゆるテクノロジーを用いてとにかく効率化されているために、実は店舗はなくとも基本的に問題ない。ユーザーはオンラインでいつでもどこからでもすぐに注文することができるからだ。実際売り上げが10億円を超えるまでは、多くのD2Cブランドは店舗を持たない。だからこそD2Cブランドは店舗を商品売り場というよりはむしろ、プロダクトの世界観を伝え体験させることのできる場として活用している。
ミレニアル世代を対象としていることもあってGlossierをはじめとしたD2C企業のほとんどはSNSにおけるブランディング戦略に特に重点を置いており、店舗に来る人たちはそのほとんどがSNSやWebサイトで物理店舗の存在を知って訪れる。オンライン空間を通して体験できる世界は十分に魅力的である一方で、そこでは手に取ってプロダクトを眺めたり、商品にまつわるストーリーをきいたりすることはできない。人々は、実際にプロダクトやその世界観を体験してみたくなる。そこで店舗に行ってみることを思いつくのだ。
 このとき、建築の認知と第一印象の発生のデザインは、ブランディングによってユーザーのなかにイメージが生まれてくる瞬間から始まっているといえる。なぜなら建築への入り口は、ファサードやアプローチというよりはむしろブランディングを通して生成されるユーザーの体験への希求だからである。それは昔の和歌のようでもある。オンライン空間における魅力的な“アプローチ“。オンライン世界で魅力的な世界観を描くからこそ、建築という体験への希求が強まるのである。

画像1

Fig. 1 Glossierの店舗の閉鎖的な立面(引用元

 GlossierのUXでも、まずはブランディングによってユーザーのなかにブランドへのイメージがつくられていく。同ブランドは、肌に優しくエコフレンドリーなコスメを、魅力的でインスタ映えもするが派手過ぎないという絶妙なクリエイティブの効いたパッケージで販売することで若いユーザーの心をとらえている。
 Glossierの店舗はニューヨークにあるが、看板ももたず、窓もない。入り口はすりガラスで仕上げられており中はみえず、小さくロゴが張り付けられているのみである(Fig.1)。これはオンライン空間から連続するExperiential Facadeの最後のパートである。あえて近くの人に住んでいる人や店舗の目の前を歩いた人にも認識されないようなしつらえとなっている。オンラインからオフライン空間へとExperiential Facadeをたどってきたユーザーにとって閉鎖的なファサードはまるで「自分たちだけが知っている特別な場所」へ向かうかのような特別感さえ演出するのである。
 The Wrong GalleryのExperiential Facadeがその“立ちあらわれ方”に特徴があったとすれば、Glossierは、オンライン空間とのかかわりから生じる現代的なその“姿”に妙があったといえるだろう。人と建築の出会いはオフライン空間だけでなく、オンライン空間におけるユーザーへのアプローチやブランディングと一体的にとらえていく必要があるといえるだろう。

事例3:瀬戸内に浮かぶ宿(guntû)

 guntûは瀬戸内の海に浮かぶ宿である。guntûは船ではあるものの堀部安嗣が設計したこともあり内装はまるで建築のようにしつらえられている。
乗船には予約が必要なこともあり、ユーザーのはじめのタッチポイントは主にWebであると考えられるが、そのサイト(Fig.2)には印象的な序文がつづられている。

「guntû ガンツウ。
せとうちの海に浮かぶ、ちいさな宿。
島々が織りなす瀬戸内海の風景と、
ささやかに営まれる、島の日常に出逢う旅。」

 guntûはここで鮮やかに自分たちの立ち位置を示している。guntûは船というよりはいわば展望台なのだ。海を漂う豪華さを楽しむというよりも、島を眺めるためにある。そう示しているのである。軽やかに「船旅」という文脈から逃れて、漂う展望台という独自の文脈を獲得している。Glossierの事例で見たように、ここでもオンライン空間での体験を通してその世界観にふれることでユーザーの中に空間へのイメージが生成される。それがguntû におけるふるまいを規定する。社会的文脈を変化させる印象的な“姿”ともいえるExperiential Facadeである。
 同時に、guntûはその“立ちあらわれ方”にも妙がある。
 海からは陸の風景がよく見える。船に乗るからこそ、自然と船を降りた陸での時間に目が向いてしまう。離れることによって相手への興味が強まってゆく。しかし手を触れることはできない。そこを歩いてみることもできない。guntûは陸の体験へ向けた壮大な演出なのだ。人々は陸を離れることによってむしろ陸を凝視してしまう。離れるからこそつい気になってしまい、同時に陸にあがることに対して欲望を抱いてしまう。guntûへの乗宿体験自体が瀬戸内という土地体験への大がかりなExperiential Facadeとなっているのといえるのである。

画像2

Fig. 2 guntû のWebトップ(引用元

事例4:物理的デザインとバーチャルデザインの重ね合わせのファサード(POKEMON GO)

 一つ目の事例では、オフライン空間での“立ちあらわれ方”に特徴のあるExperiential Facadeを眺めた。オンライン空間の体験から始まる“姿”に特徴のあるExperiential Facadeも眺めた。さらにそれらの合わせ技ともいえるようなブランディングから特徴的な体験までまるで長い映画のように紡がれていくExperiential Facadeも眺めた。しかし現代の空間デザインの領域はそうした範囲にとどまらない。バーチャルな空間体験が人々の日常生活にあふれはじめている。
 POKEMON GOはスマートフォンで周辺の動画を撮影するとポケモンがまるでそこにいるかのような合成映像がディスプレイに映し出されるコンテンツである。近年急速に普及しつつあるこうした技術はAR(Augmented Reality、拡張現実)と呼ばれ、現実空間上にデジタル情報を重ねて表示することができる。
 街中を歩き回ることで位置情報に紐づけられたポケモンキャラクターと遭遇できるが、実際の利用ではレアキャラクターが出現すると噂のスポットに人々が殺到する事例が何度も起きた。例えば上野の山でも西洋美術館の周辺でスマートフォンの画面だけをずっと凝視してポケモンを探している人が大量に発生した(Fig.3)。
 彼らは建築の立面を見つけても、しばしばスマートフォンの画面越しにそれを眺める。彼らの視界には常にポケモンが存在しており、彼らにとっての美術館のファサードは物理的に存在するファサードにARコンテンツであるポケモンやゲーム背景としての木などが重なった姿なのだ。これはARによるExperiential Facadeといえるだろう。
 建築の物理的ファサードは、もはやそのまま知覚されることすらなくなる状況まで出てきているのだ。

画像3

Fig. 3 上野公園で密集するプレイヤーたち(引用元

 こうしたシフトは一過性のものでもない、というのが私の見立てである。
 近年ではスマートフォンに代替するデバイスとしてスマートグラスの普及が期待されている。メガネ型のデバイスをかけるとスマートフォンのようなディスプレイやキーボードが見え、手でジェスチャーをすることでそれらを操作できる。まるでSFのような世界観に思えるが、実はこうしたデバイスはすでに完成していて、市販までされている。一世代前のスマートフォンくらいのディスプレイ解像度はすでに実現されている(Fig.4)。
 今ではFacebookやAppleなどが代表格としてスマートグラス開発に莫大な投資を行い、日本ではdocomoやauなどがその競争に参画しているが、実はこうしたデバイスの普及は2020年を境として爆発的に普及すると見込まれている。なぜかというと、スマートグラスの普及に際してボトルネックである問題を解消する技術が、2020年に普及するといわれているからだ。
 スマートグラスは、高い処理能力と大量のデータ容量を必要とする。ARを用いるための3Dデータをリアルタイムでレンダリングするにはきわめて強力な計算能力が必要であり、それを保存する容量も膨大になってしまう。したがって高性能なスマートグラスはその分重く、メガネのようにかけることができなくなってしまうというジレンマがある。しかしこれを解決するのに実に有効な手段がある。それはクラウドですべて処理してしまうことだ。
 スマートグラスで取得した画像情報や赤外線情報、GPSデータなどをすべてクラウドに転送し、サーバーで超高速に処理し、計算結果をスマートグラスに返す。そうすればスマートグラスは基本的に画面や3Dオブジェクトを表示するだけでいい。そのためには超高速で、超大容量の通信を可能にするシステムが必要になる。
 実は、この通信システムの導入が2020年に行われることになっている。現在の第四世代通信システム(4G)から第五世代通信システム(5G)への移行である。5Gでは一度の通信量はおおよそ1000倍になり、通信速度は100倍になるといわれる。これまで10秒程度かかっていた通信が0.1秒以下になり、同時に1000倍のデータを転送できる1。だから多くの企業はスマートグラスに対して次の大規模な普及が見込まれるデバイスとしての期待を寄せているのだ。
 さて、長々とスマートグラスの解説をしてきたが、私がいいたいのはPOKEMON GOのような事例は今後より日常的になり、同時にこれまでよりも空間的な現象になる可能性が高いということだ。もはや人々は新しい目を獲得したかのように、デジタルとフィジカルが重なった世界に日常的に暮らすことになるかもしれない。そこでは自分だけの広告が存在するだろう。あるいは自分のためだけのナビゲーションルートが表示されることもあるだろう。建築の物理的ファサードにデコレーションを張ることもできるだろう。
オフライン世界とオンライン世界の融和が実空間体験のなかでおきる。建築という体験のはじまりはどこに見出されるのか。Experiential Facadeの領域はふくらんでゆく。

画像4

Fig. 4 499ドルで発売されるスマートグラス「Nreal light」(引用元

事例5:身体のデザインから始まる空間体験(VRChat)

 さいごにもう一つ不思議なバーチャル世界のExperiential Facadeをながめることにしよう。
 近年のVR世界においては人々がアバターを用いて社会的に交流する場がうまれているが、最近では会議だけでなく商品の販売や美術品の展示、果ては精神病の治療も行われる場ともなりつつある。これは新種の建築空間といえよう。こうした変化に伴ってVR空間を専門とした設計者も現れた。
 VRのExperiential Facadeはきわめて特徴的なものになる。そもそもVR空間は必ずしも内と外という概念を持たない。内部空間だけがつくられた世界で、ある部屋からある部屋へワープするという現象が起こる。従来の空間の概念が一部適用できなくなるVR空間内においては、Experiential Facadeは空間体験を理解しデザインしていくうえで特に重要な概念となるだろう。ワープ先を部屋の中心に位置するか、あるいは端に位置させるかといった選択がユーザーと建築の出会いをかたちづくるのである。
 また、これまでみてきたような言葉やイメージがオンラインで扱われるだけでなく、空間そのものがオンラインに存在するためブランディングと空間体験の境界もとけてしまう。
 以上のようにVR特有のExperiential Facadeの特徴がいくつか見受けられるが、しかしそれ以上に興味深いのはVRのExperiential Facadeが身体を選定する瞬間を含むことだ。
 ひとつの事例として、VRChatにおける体験をながめることにしよう。
 VRChatは社会的交流のためのVR空間である。ユーザーはさまざまな空間をしつらえてアップロードし、そこに人を招くことができる。VRChatは人々の手軽な交流の場として現在急速に普及しつつある。
 このサービスの人気の機能として自ら自由にデザインしたアバターをVR空間内で利用できるというものがある。ユーザーはさまざまな服装を楽しむだけでなく、カエルをモチーフにアバターを作成したり、キノコをモチーフにしたりといったさまざまなキャラクターを製作して楽しんでいる。ユーザーはストアなどでデータをダウンロードし組み合わせてアバターを作成するだけでなく、3Dオブジェクトを自らモデリングソフトなどを活用して編集して自分だけの特別なアバターを作成して空間に参加できる。VRChatにおけるExperiential Facadeは自らの身体をデザインすることから始まる。このことはどのような意味をもつのだろうか。
 メルロ・ポンティは人が自らの身体と空間のかかわりのなかで空間を認識していくことを指摘したが2、これまでの日常生活において私たちの身体は一人一人固有のものであったのだ。身体の変化はどのような変化をもたらすのか。
 ある研究によれば、VR空間でアインシュタインのアバターを用いて計算問題に取り組むと、計算能力が上がるという3。また別の研究では、自分の実際の身体よりもふくよかな身体をもつアバターを用いることで、ふるまいが普段よりも緩慢になることが明らかになっている4。加えて、実際の身体感覚をVR世界に持ち込むことはできないが、人間がおよそ人間ではない形態をしたアバターに対しても部分的に身体感覚を宿せることが研究でよく知られている5。
 すなわち、身体のデザインはアバターのモチーフがカエルであれウサギであれ、空間の認識とそこでのユーザーのふるまいに大きく影響するのだ。あらゆるVRコンテンツにおいて、身体のデザインとその受肉はExperiential Facadeの一部として重要な役割を担うことになるだろう。これからは、そもそも身体を選定するところから空間設計は始まっていると考えるべきなのである。

画像5

5つの事例における「拒絶」という思考の補助線

 改めて言うが、Experiential Facadeは体験をさす。
 UXデザインが領域横断的で複雑であるのと同様にExperiential Facadeのとりあげる範囲も厳密に定義することはできない。ゆらぎ、ふくらんでいくからだ。
 社会の変化やテクノロジーの普及に伴ってオンライン空間とオフライン空間の体験が一体的に作用しあい、拡張現実が普及して仮想現実もまた人々の交流の場となり、空間という概念の領域が拡大されていく。Experiential Facadeはそうした変化に伴って多様になっていく人と建築の出会いをとらえるための概念である。物理空間、Webメディア、SNS、VR、AR、そうしたものが互いにつながって相互作用しあう。その構図は今後ますます強まっていくだろう。5つの事例はとらえどころのないほど幅をもっているようにすらみえた。
 私は5つの事例を捉えながらこれからのExperiential Facadeのデザインを考えていくにあたり、たった一本の思考の補助線をひくことからはじめたい。それは「拒絶」というキーワードである。
 The Wrong Galleryではその狭小さが拒絶であった。アート作品の前で人々が交流することをみとめない。しかし人々は拒絶されることによってはじめて、積極的にその余白の価値に目を向けることができた。拒絶によって道路空間に新たな意味を見出した。
 Glossierは、オンライン体験をユーザーに近づけることによって空間体験を相対的に遠ざけ、そのことによってユーザーをショップへと誘惑した。何かを強く近づけることは相対的にほかの何かを遠ざけることでもある。そして閉鎖的なファサードによって店の存在を知った人だけに店への入り口を知らせることで(つまり店の存在をしらない多くのユーザーを意識的に拒絶することで)Glossierの店舗におけるユーザー体験を特別なものにした。
 guntûのデザインでもまた拒絶に妙がある。自分たちをステレオタイプに“豪華客船の旅”だと読み解かれることをまず拒絶した。そして陸を知るために陸から離れるという陸での滞留への拒絶に旅行者を伴わせることで、新しい土地体験の地平を開いた。
 POKEMON GOは、コンテンツとしての充実度とUIデザインを高めることによって、人々が自らの目だけを用いて世界を知覚することを拒絶させている。
 VRChatにおいては、そもそも身体が拒絶されている。もちろん自らの身体感覚すべてが否定されるわけではない。それでもすべての物理的知覚能力や自らの身体の物理的特性をVR世界へもっていくことは許されない。一方で改変を通して人々は自分のふるまいや能力、認識において、新しい可能性に出会うこともできる。
 拒絶は一瞬だけ見れば単なる拒絶でしかない。特に人と建築の出会いにおいて拒絶はその後の交流を決定的に失わせるきっかけともなりうる。建築デザインを単体の建築物のデザインではなくUXデザインとして捉えることによって、個々のパーツとしての体験だけでなく、体験同士の関係性から生まれる意味がデザインの対象となる。拒絶を瞬間ではなく連続性のなかでとらえる必要があるのだ。

多様性の“受容”という考え方の限界

 多様性の受容ばかりを強要する社会は奇妙だ、と思う。建築においても同様だ。“受容”は永遠に達成されえないというのに、多くの人がそればかり追いかけている。例えば図書館に車いすユーザーが入ることはできても、本棚には手が届かない。本棚を低くしても、そもそも前かがみで本を手に取る行為をするだけの体幹の筋機能が残っていない人もいる。車いすユーザーに合わせすぎると、車いすに乗らないユーザーに合わなくなる。目がみえないユーザー、耳の聞こえないユーザー、そもそも識字能力のないユーザー、外国人、文化の異なる人々、そうした人々にすべて合わせようとするとき、「誰にも合っていない」建築ができてくる。思考停止して多様性の“受容”のみを目指す設計はつまるところ誰にもフィットせず、誰もが不便を感じるような空間設計に行きつくのではないか。
 要はバランスが重要だ、という結論に到達することは簡単だ。しかしそうした態度は茫洋として魅力に欠ける建築を大量に生み出すことにつながりはしないか。
 拒絶はすべからく悪にはならない、と思うのである。それによって生まれる至高の体験もあるだろう。選択と制限によって守られる文化もあるだろう。私はむしろ、拒絶さえも豊かな体験としてデザインすることで、ユーザーと建築の関係性が広がっていくような新たな多様性の受け入れ方を考えたい。

拒絶という概念の多様な捉え方

 いや、そもそも「拒絶」とは何なのだろうか?
 5つの事例から多様性への応答としての拒絶の可能性を読み取ることもできる。
 The Wrong Galleryの事例からは、物理的な寸法や高さの問題に関する多様性への対応が考察できる。誰も入れないという物理的な拒絶は、“道路”という空間がもっていた意味づけを人から奪った。いっそすべてを拒絶してしまうことで、すべてを受容しようとした。車いすユーザーに代表される寸法の問題に新たな可能性を照射していると理解することもできるだろう。
 Glossierやguntûにみられたイメージの操作の考え方を応用すれば、負のイメージをもつ空間を人々の欲望や希望を喚起する場に変容させることもできよう。例えばソーラーファームのひとつひとつのパネルを、お墓とみなしてみるようにデザインし負のイメージを操作するのはどうだろう。死後も電気を生む、ひらけて見晴らしのいい場所にある、明るい墓地が生まれる。
 POKEMON GOでみた考え方は新たな公共の可能性にも光を当てうる。人々はテクノロジーを通した知覚に閉じこもることで、自分たちだけの世界を獲得できる。自分だけにみえる世界で自分の好きなように暮らす。つまりスマートフォンにせよスマートグラスにせよ、人々のみている世界は全く異なることが当たり前の現象として発生しつつあり、そこでは多種多様な文化や人々の属性に応じて、無限の空間が同居することになるかもしれない。
 VRChatにおける身体の拒絶はユーザーに新たな身体を与えることにつながるが、これにはさまざまな共感を可能にする活用が可能なことも知られている。こうした共感は他者を深く理解することに有効だ。たとえば老人の身体を実際に体験してみることで老人への共感が増したり6、色覚異常者の世界を体感することで色覚異常者の支援にそれまでより2倍の時間を支援に使うようになったりした研究が知られている7。こうした考え方はエンボディメント8と呼ばれる。
 上記の事例は、さまざまな空間を異なるアバターで体験することを通して、我々が自らの実空間でのふるまいを変化させ他者と共存したり、他者への理解をより容易に獲得したりできるようになる可能性を示唆しているともとれる。そんなふうにもみえる。
 しかしそうして拒絶の価値を論理的に切り出し集約し当てはめていってみてもつまらない。拒絶はもっと複雑で領域横断的な何かだ。要素というよりはもっと総体としての何かであるはずだという気がする。

 私は拒絶のデザインの価値を「矛盾を仮定したところにある」と読み解きたい。拒絶のデザインとは受容のデザインでもあり得る。ある人にとっての拒絶は別の人の受容であり得るし、拒絶されることで受容されることもある。拒絶はみるものによって多様であり、アンビバレントであり、常に矛盾をはらんでいる。
 拒絶のデザインとは、受容の意味付けへの偏重が偏在する現実世界に拒絶をもちこみ、受容と拒絶のはざまに矛盾を生み出す取り組みである、と捉えてみたいのだ。
 矛盾とは意味が宙づりになった状態と理解することもできよう。岡倉天心は『茶の本』で次のような老子の言葉を引用している9。

 「物の真に肝要なところはただ虚にのみ存する(…)。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存在しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。」

 虚は矛盾をはらむようにもみえる。そこでは有と無が同居する。“ない”ことによって“ある”。虚の矛盾はすべてを含有する。
 ジョルジュ・バタイユは無意味とは意味が存在しない状態ではなく、意味がまだ発見されていない状態である、と理解した10。矛盾もまた、意味を失った状態かのようにみえるがその実、新たな意味の地平が開けた状態なのかもしれない。
 記号論理学では一般に矛盾を仮定することで任意を仮定したとみなして論理を展開する。命題「φ」と命題「φでない」を同時に仮定するとき、これは矛盾の状態である。このときλを任意の命題として「φ→(φまたはλ)」は真になる。すると「φでない」かつ「φまたはλ」よりλが導出される。矛盾とは意味の喪失ではない。矛盾とは、任意の命題を導出することなのである。
 拒絶と受容は矛盾をはらむだけでなく、不可分でもある。生物学者の福岡伸一は生物の複雑性と世界の複雑性の相似を踏まえて世界の不可分性について指摘したが11、「超総合格闘技」であるUXも不可分なものであるだろう。
 詩人である最果タヒは詩の理解における朗読の必要性を指摘しながら、不可分性をそのまま受け入れることの重要性を指摘している12。詩を朗読するとき、一度読んだだけでは意味がよくわからないことがある。しかし音は流れていく。「?」マークを脳内に浮かべながら最後まで行きついたとき、やっと感じられる情緒がある、というのだ。そのうえで最果は、理解できるものを「意味」としては必ずしも了解しない。

「しかしそもそも言葉にとって意味こそが核なのか、私は疑問です。言葉とはもともと鳴き声であり、感情であり、感情とは、そもそもが曖昧なものである。「共感」のために明瞭化されたものは感情ではなくて、ただのアイコンだ。だとすれば、意味なんていうくっきりはっきりしたもののために言葉があるとは思えないし、リズムやメロディが意味を忘れさせる瞬間は、「言葉」として本質的ではないかと思う。私は正直、リズムやメロディこそが核で、意味は枠だと思っています12。」

 最果の指摘はUXをそのまま受け入れる際の意味を超えた理解の重要性を示唆している。拒絶や受容という言葉ですら、本当は意味をなさないのかもしれないのだ。

多様性への応答と出会いのこれから

 拒絶のデザインが施されたExperiential Facadeは、矛盾が仮定される瞬間だ。そこに存在していた意味が宙づりになり、その意味の隙間の地平を人が垣間見ることになる瞬間。あらゆる多様性が同居しはじめる瞬間。その広大さにワクワクする。あらゆる多様性の真の“受容”の可能性をみるのだ。
 世界はかつてないほどに複雑で混沌とした時代に進みつつある。そうした世界で、これまでの多様性という概念がなんの役に立つというのだろうか。そうした既成概念に基づきながら単なる思考停止で満たされた受容を目指す設計がどれほどの可能性をもつというのだろうか。
 建築に携わるものは、建築を通して人々を新たな多様性の受容と多様性そのものの変容へと誘わねばならない、と思う。そのためにExperiential Facadeを効果的にデザインせねばならない。UXというものの複雑さと広さと深さを誠実に理解し手を加えねばならない。複雑化する都市を眺め、世界を眺め、そこに立ち向かい続けてきた人々ならできるはずだし、それはDIYにハマる一般人でもAIでもなく建築家でなければできるはずもない、と思うのである。

最後に:ワイングラスのステムが生む不安定さ

 ワイングラスのステムについて考えている。ある人は飛行機で飲む高級なワインは、陸で飲むよりはるかに不味いという。その理由は「グラスのステムが短いからだ」。彼によれば、ステムが長いワイングラスは独特の緊張感をもつ。緊張感ゆえに、そっと手を伸ばしゆっくりもちあげるような「作法」とも呼べる挙動があるらしい。飛行機では不安定さゆえにステムが短いグラスが用いられ、その作法が喪失するためにおいしさが半減する。それが飛行機で飲むワインを否定する彼の意見だ。
 ワイングラスのステムが長くなったのはここ数十年ほどのことであるようだ13。それまではラッパ型のグラスや銀の器がしばしば用いられた。ステムは短かったらしい。
 はじめてステムを長くした人はどんな意図をもっていたのだろう、と思う。ステムを伸ばしたことで、ワインはテーブルを拒絶し天井へと近づいた。並べられたほかの料理をさしおいてより高く宙に浮かび上がった。
グラスは不安定さを手に入れた。その不安定さは持ちやすさや安心感を拒絶した。ワインを飲む行為に緊張を与えた。作法を生んだ。私はそこに、文化のきらめきをみたような気分になるのである。
 誰かはよりおいしくワインを味わえるようになったことだろう。誰かはおいしいワインを飲めない劣等感に苛まれるようになっただろう。誰かは、注がれたそのワインを包むグラスに手を伸ばすその瞬間をこそ、何よりも味わうようになったにちがいない。

参考文献

1. Andrews, J. G. et al. What Will 5G Be ? 1–17.
2. メルロ・ポンティ. 知覚の現象学. (法政大学出版局, 1945).
3. Banakou, D., Kishore, S. & Slater, M. Virtually being Einstein results in an improvement in cognitive task performance and a decrease in age bias. Front. Psychol. 9, (2018).
4. Piryankova, I. V. et al. Owning an overweight or underweight body: Distinguishing the physical, experienced and virtual body. PLoS One 9, (2014).
5. ピーター・ルービン. フューチャー・プレゼンス 仮想現実の未来がとり戻す「つながり」と「親密さ」. (ハーパーコリンズジャパン, 2019).
6. Yee, N. & Bailenson, J. Walk a mile in digital shoes: The impact of embodied perspective-taking on the reduction of negative stereotyping in immersive virtual environments. Proc. PRESENCE 147–156 (2006).
7. Bailenson, J. VRは脳をどう変えるか?仮想現実の心理学. (文藝春秋, 2018).
8. Peck, T. C., Seinfeld, S., Aglioti, S. M. & Slater, M. Putting yourself in the skin of a black avatar reduces implicit racial bias. Consciousness and Cognition vol. 22 779–787 (2013).
9. 岡倉覚三. 茶の本. (岩波文庫, 1961).
10. ジョルジュ・バタイユ. 内的体験. (平凡社, 1998).
11. 福岡伸一. 世界は分けてもわからない. (講談社, 2009).
12. 最果タヒ. 百人一首という感情. (リトルモア, 2018).
13. REIDEL社. ワイングラスの歴史【1】. https://www.riedel.co.jp/blog/wineglasshistory/ (2012).

「最後に:ワイングラスのステムが生む不安定さ」の補足

ワイングラスのステムのくだりが余計ではないか、との指摘は審査員以外からも頂戴した。

僕もそう思う。意図はあったけれど、雑なことは否めない。どちらかというと、提出直前に話を聞いて構成を思いついて、2次プレゼンでのフリとしよう、くらいの感じで書いてしまった。

本当は最終選考で、このワイングラスの話をきっかけに、UXデザインとしての素晴らしい事例としての伊勢神宮について深く話し、D2CなどのSNSを通したカルチャー醸成との相似について話していくことで、Experiential Facadeと文化の関係性について論じるつもりだった。その意味で、一本の論考の終わりというよりも、後半部分への導入だった、というほうが正しい。

設計コンペなどでは1次と2次で案が異なることがしばしばあって、2次まで照準を合わせて1次を闘うことが多い。なんとなくその程度の認識で書いてしまった。だから雑さと、これだけでは余計な感がある。

これはとても反省なので、今後その後半部分も含めた内容を、しっかり練り上げていきたいと思っている。

謝辞

この論考を書くにあたり、後押しをしてくださった東大大学院の同級生である吉野君には本当に感謝。とても素敵な機会でした。そしてこの論考を書いていくにあたり、前もって内容を読み、様々な角度から与えてくれた指摘はとても的確で、同時に思いやりがあって、とても執筆が楽しくなりました。

また、同じくアドバイスをくださった、東大千葉研の田中義之助教にも感謝です。

そして何より、長い時間をかけてこの論考を読み、議論し、コメントを書いてくださった審査員の先生方には感謝いたします。

優しいものから辛辣なコメントまであって、すごく興味ぶかかった。評価に幅があったからこそ、この論考を書いてよかったと思えた。ぜひ直接会っていろいろとお話してみたかったけれど、授賞式も中止になってしまったのはとても残念です。どこかでぜひお話する機会があればとても嬉しいなと思っています。

おまけ

この論考のテーマは、ブルーボトルの三軒茶屋店のデザインを分析していた時に思いついた。

画像8

これが、京都の料亭のアプローチに類似しているように見えた。

画像7

こちらから引用

特にお店の外観はみえないのに、吸い込まれていくうちにお店の世界観へと浸っていく。こうしたアプローチは、ブルーボトルの三軒茶屋店にも似ていた。

建築ではファサード、要するに外観をいかにデザインするかということは重要な問題だ。

しかし、逆にUXデザインとして建築デザインを捉えるならば、全くファサードをみせない、意識させないことによって、徐々にユーザーを体験のなかに没入させていくことが可能なのではないか、と思った。

そうした観点でいろんな空間との出会い方を考えてみると、次第にこの論考の骨が出来上がっていった。

この論考については、現在進行中の、大幅な改善版がある。

そこではUXというものに対する考え方がかなり変質しているとともに、上にも書いたように、ワイングラスのステムのくだりも回収されることになっている。

仕上がったらまたnoteなどで公開できればと思っている。

サポートは研究費に使わせていただきます。