塗り残し
セザンヌという画家をご存知だろうか。
個人的に敬愛してやまない画家の一人であるが、「近代絵画の父」と呼ばれている。また、セザンヌなくして、20世紀絵画を語る事は不可能であるとも言われている。
どうして「近代絵画の父」とされてるのかと言うと、絵画はセザンヌがきっかけでパラダイム転換が起きたからだ。パラダイム転換とは、皆が考える規範的な見方や捉え方が、何かをきっかけとしてがらりと変換してしまう事である。
例えば例に挙げると、ダウンタウンの漫才だ。ダウンタウンがデビューした1980年前半は漫才ブームの真っ只中。当時はスピード感のあるしゃべくり漫才が主流だった。
そんな時代にダウンタウンは、松本人志さんが一切笑顔を見せることなくクールな引き芸(受身の芸)のしゃべりに徹し、浜田雅功さんがチンピラのように激しく怒鳴ってツッコむというこれまでなかった独特の間の新しいスタイルを確立した。その後も多くの芸人さんに影響を与え続けているのは周知の事実であろう。
現在日本一の若手漫才師を決めるM-1グランプリの審査員紹介でも松本さんが登場する際に「漫才の歴史は彼以前、彼以後に分かれる。全芸人がリスペクトする漫才界のレジェンド」などと紹介されているのは、まさしくパラダイム転換が起きた証明でもあると思う。(※ちょっと今は渦中の方なのであれですが)
セザンヌが登場する以前の絵画では、目の前にあるものをキャンバスにどうやってリアルに表現するかという事に、洋画家たちは注力してきた。
しかしながら、セザンヌが活躍した19世紀はすでに写真技術が発達しており、目の前のものをありのままに残すのであれば、絵画よりも写真に軍配が上がるのは明らかだった。
そこでセザンヌは見たものをありのままに描かない事(自然や建物やモノを分解して、意のままに再構築)をしたり、筆致(タッチ)の重なりで形を表現し独特のリズムを纏わせたり、独創的な表現を生み出した。
中でも、僕が個人的に特に感銘を受けたのが「塗り残し」だ。
セザンヌの作品の中には、まるで色を塗り忘れたかのようにキャンバスの白地が除く「塗り残し」箇所のある作品が数多く存在する。キャンバスの白地が見えている事は未完成である証拠とされ、セザンヌ以前の絵画の世界ではありえない事だった。
しかしながら、セザンヌにとっての「塗り残し」は単なる塗り残しではなく、それ以上筆を入れる事を必要としない箇所であり、まさしく完成した状態だった。
それを俗に「未完の完」とも言う。
そんなセザンヌの作品は、描かれた当初から一般受けよりも玄人受けする作品であった。事実、ドガ、モネ、ピカソ、マティスなど画家たちの中で高く評価され、皆こぞってセザンヌ作品を購入したと言われている。
とある美術評論家の方が著書の中で興味深い事を言われていた。
印象派の作品(わかりやすく親しみやすい)を描くモネと、独創的な作品(わかりにくくとっつきにくい)を描くセザンヌがそれぞれInstagramをしていた時に、どちらの方がフォロワー数が多いかという事だった。
もちろん歴然とした差でモネに軍配が上がるであろうという事だった。一方で、一般受けはしなくとも、絵画を読み解く面白さで見れば間違いなくセザンヌに軍配が上がる。それには多少の慣れと理解が必要であると。
僕自身セザンヌ作品が好きだというのは、例えば酒のセレクトにおいても大いに影響を受けているという気がしてならない。なぜならばよくよく考えると、僕が扱わせてもらっている酒の多くは玄人受けするものが多いからだ。
事実、有名酒販店の社長さん達と以前会食させてもらった時の事。それぞれに持ち寄った酒の話をしている時に、「めちゃくちゃ美味しいけど、こんな玄人の酒(僕が持参した酒)は俺には売りきらん」と言われた事もある。
確かに一度飲んだ位ではすぐに分からないかもしれないし、派手さがなく素朴に感じるものが多い。もしかしたら多少の慣れと理解が必要かもしれない。
しかしながら、一度その美味しさ、面白さに気づいてしまえば、一生涯の付き合いになる可能性を秘めているし、そういうお酒は生活を豊かにするものだと信じている。
完成されているものは飽きてしまう。何事も余白があるからこそ、観る人(飲む人)それぞれの解釈が生まれる。余白を大切にする事は、つまりは自分の解釈を大切にする事だと思う。
ただ、ここまで語っておいて、僕自身「塗り残し」を語るにはあまりにも未熟がすぎるので鍛錬あるのみです。