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同郷の星、有原航平。筆者の人生において、彼はどのような存在だったかを少しだけ語らせてほしい。①

 令和2年(2020年)12月27日、北海道日本ハムファイターズからポスティングシステムを利用してメジャー挑戦を表明していた有原航平が、テキサス・レンジャーズと契約を締結した。彼にとって念願であり積年の夢が実現したこの日、筆者にとっても念願の夢が実現した記念すべき日になった。というのも、筆者は有原航平と同郷で、同じのクラブチームに所属した先輩であり、彼が幼い頃から数々の挑戦をずっと注目・応援してきた身であるのだ。とはいっても一緒にプレーした事はほぼないし、自慢するような関係性でもなんでもないが、筆者の人生において、有原航平はどういった存在だったのかを少しだけ紹介させて下さい。

祝勝会の度に現れ、めちゃくちゃ飯を喰らうやたら大きな小学2年生。

 有原航平(以下:航平)との出会いは、平成12年(2000年)筆者が広島の少年野球チーム、河内(こうち)少年軟式野球クラブジュニアに所属していた小学6年生の時だった。20年くらい前の記憶なのでかなり曖昧だが、それでも航平の事はよく覚えてる。2つ年上の兄を追いかける形で入団した航平は、小学2年生にしてはかなり体が大きかったが、いつも母親の影に隠れており、どこかもじもじした印象だった。当時は野球を始めたばかりなのもあり、特に技術的にどうだったかという印象はなかったが、一つだけ他の子より抜きん出た才能があった。それは食べ物に対する執着心が人一倍強かったことだ。

 河内ジュニアは、筆者の代ではわりと強豪チームだったのもあり(優勝7回:準優勝7回)、大会終わりに近くの集会所などで行う祝勝会が結構な頻度で開催されていた。うちの少年野球では、普通このような集会に入部したばかりの下級生はあまり参加しないのだが、確か当時は同級生もほぼいなかった中、航平だけは結構な頻度で参加していた記憶がある。一般的に小学二年生からすれば、上級生主体の集まりなど普通は敬遠したいところだが、なぜか結構いる。じゃあ先輩達と仲良くしゃべるかというと、そうでもない。いや寧ろ全く交流しない。そりゃ下級生が上級生とワイワイしゃべる事は早々ないだろう。ではなぜ参加するのか。航平が参加する理由は、兄がいたので他の下級生より参加しやすい環境だった事もあるが、一番は祝勝会に出てくるオードブルやうどん等の食べ物だろう。

 当時の航平からしてみれば上級生も、優勝した事もさほど、いや、全く関心なく、そこに食べ物があるか否か、それが航平の参加する基準であったと思う。本当に食べてるイメージしかない。この頃の航平はよくうどんを食べてる大きくてかわいい子だなという印象だった。だが、体の大きさ・大食漢・時より感じた目の奥に見える負けん気の強さは、こいつはなにか他の子とは違うなという感覚も、小学生ながら感じていた。

約20年前の記憶なので非常に曖昧ではありますが、航平の大食漢エピソードを記事で見かけるたびに、信憑性が増しております(笑)。

少しずつ才能の片鱗を見せてきた逸材。筆者もその実力にひれ伏す。

 平成13年(2001年)春、筆者は中学校へと進学し部活とクラブチーム(河内少年軟式野球シニア)で時の流れるままに野球を続けていた。ジュニアとシニアは全く別の施設で活動しており、ジュニアに所属していた航平の姿を直接見ることはなくなったが、人づてに”どうやら凄いらしいぞ”との噂を耳にする機会が年々増していった。そして平成15年(2004年)2月、ついにその才能の片鱗と相対する機会が訪れた。それは河内少年野球軟式クラブジュニアが冬に毎年開催する体力測定会であった。当時の筆者は進学先を三原市にある如水館高校に決め、入部に向けて自分の体を追い込んでいた時期だった(追い込んでないけど笑)。そのような噂を耳にして河内ジュニアの監督さんが筆者に測定会に来いと連絡してきた。ほぼ強制だったので筆者はどちらかというと、この体力測定会に向けて必死にトレーニングを行ったのであった(笑)。

 測定会に行くとそこには、さらに背が高くなった小学5年生の航平がいた。この時はお互いまあ知ってるなという関係で筆者も会話した記憶はない。そんな航平に測定会のある項目で筆者は完全に敗北した。それが以前の記事の中でも触れた遠投(ソフトボール投げ)だ。中3の筆者はせいぜい30m中盤程度(かなり肩弱い)だったが、航平は小学5年生にもかかわらず40m投げたのだ(もっと投げていたかも)。小学5年生男子の遠投の平均が22~3m程度なので、航平の出した記録はかなり突出したものである。なんじゃこいつは!?という驚きと共に中学3年生のプライドは完膚なきまでに叩きのめされた。中学3年生が小学5年生に負けていい項目などあるはずがない。この衝撃的な現実は今でも強烈なほど頭の脳裏に刻み込まれている。今思えばそこにいた大人達は、将来が非常に楽しみな航平と、こんなやつが一ヶ月後に如水館の門を叩くのかという絶望感を同時に味わっていたのかと思うと、なんだか笑えてくる。それはともかく、この日から筆者は航平に対して完全に一目置くようになり、こいつは間違いなくプロ野球選手になるだろうと確信した。筆者はここから彼の人生を見守るようになっていった。

高校野球引退後、久々に再会した有原航平といきなり対戦!その結果…

 筆者が高校に入学し、広島から遠く離れた場所にいても、いつも母親から航平に関する情報を収集していた。小学6年生になった航平は、広島の少年野球界隈では、知らない人はいないほど有名な選手になっていたようだ。高校2年、3年生になっても随時情報は仕入れたり、要らなくなった如水館Tシャツをあげたりと多少の交流(一方的に)はしていたが、当時ベンチ入り当落線上だった筆者は、周りを気にかけるほどの余裕は次第に無くなり、航平の存在も忘れていたわけではないが、段々と薄くなっていった。

 平成18年(2006年)筆者にとって最後の夏、如水館は甲子園で帝京高校に大敗した。その週末にはすぐ三原に戻って退寮し、約2年4ヶ月ぶりに地元へと帰還した。すぐに携帯電話を契約して、なんの制約もない、これから始まるフリーな生活にワクワクしていた時、一本の電話が鳴った。電話の相手は中学校の同級生で、内容は河内シニアで現役チームとOBで対戦しようとの事だった。夏休みの予定など全く立てていなかったので、その申し出を了承し、約3年ぶりに河内シニアのグランドを訪れた。同じく高校野球を引退した同級生や監督、コーチらと軽く談笑し、それではと試合に臨もうとした時、相手の現役チームのマウンドには、なんと中学2年生になった有原航平が立っていた。そんなに喋ったことなかったが勢いで航平!久しぶり!とベンチから声をかけると、軽くペコっと会釈してくれた。あの測定会以来の再会である。噂ばかり耳にして実際の投球を見ることがなかった筆者は、帰省していきなり航平の投球を、しかも対戦という形で見れることになるとは…と心躍らせた。そして、試合開始と共に投げられた航平の投球は、噂や想像を遥かに超えた凄まじいものだった。

 170cm超えの身長から投げ下ろす角度のある120km/h前後のストレート落差と緩急のついた変化球やマウンドから感じる威圧感。中学2年生でこの能力。しかしそこではない。航平の最大の魅力はまだ実力の30%も出せていないのではないかという”圧倒的未完成感”である。正直、球速や球種ではなく、そこに強烈なインパクトを感じた。この時点で最早プロ野球選手になるという到達点は消滅し、プロ野球のオールスター級には間違いなく到達するだろうと確信した。そして、この底知れぬ可能性を秘めた逸材は下手したらメジャーの可能性もあるとすら感じたのであった。筆者は高校3年生の夏休みなどほとんど記憶にないが、この日だけは鮮明に脳裏に焼き付いている。ちなみに2~3打席立った様な気はするが、いずれも引退したばかりの甲子園球児はあっけなく中学生相手に凡退した。

 よく航平が良いピッチングを披露すると”宝石の様な投球”と称されるが、この時はまさに”宝石の原石のような投球”だったと言えるだろう。いずれにせよこの輝かしい原石を知ってしまった以上、筆者は動かざるを得なかった。母校の為にもなるし、あわよくば自分と同じユニホームを着てほしい。それ以上に自分の下した評価は本当に間違いないのか?それを確かめたく、母校のスカウトに声をかけてみようと決心した。

 

 

長くなりそうなので、分割して記事を書こうと思います。誤字脱字、おかしな表現等は多めにみて下さいm(_ _)m

続きです↓

※3/11追記 一度投稿したのですが、何回か編集を繰り返してたら記事が半分消えちゃいました…orz 書き直すので気長にお待ち下さい…

※3/12追記 消えた文章なんとか書き直しました!下記からどうぞ!


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