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終活スナックめめんともりで縄文の死生観を改めて考えてみた
「縄文時代は死を特別視していなかったという見方もできるかもしれません」 終活スナック「めめんともり」で、初めて出会った人たちと「生死」について語り合った夜のこと。
「え、そもそもなんで縄文時代に興味を持ったの?」
5年ほど前だっただろうか。
年齢を重ねるにつれて、何かに対して疑問を持つことが少なくなった。「なんでだろう」と一瞬は思っても、見過ごす癖がついていた。最近、脳内で開かれる学級会議では「先生!これはどういうことですか」と質問してくる生徒もいなくなり、淡々とやるべきことが進む毎日。テレビから流れてくるニュースも、どこか自分には関係のないものとして捉えている。このまま私は何も感じない人になってしまうのだろうか。
そんな私が変わるきっかけとなったのが、コロナだった。 多くの人と同じように未知の病に怯え、「生きること」について深く考えるようになった。
「先生!どうして人間は存在するのですか?そもそも人間って何ですか?」
登校拒否だった生徒が私に質問を投げかけてきた。
「そんなのわからない、わからないよ。でも、待てよ。人類は歴史を繰り返しているということは、何か学ぶべきことがあるのではないか?」
人類の起源を辿る中で、長い年月を占める縄文時代に興味を引かれた。約1万年も続いたということは、今後の人類の道しるべが縄文時代にあるのではないか?
まるで世紀の大発見(全然そうではない)をしたかのように雷に打たれた気分で、書物を読み漁った。
「縄文時代には争いがなかったらしい」とか。
「縄文時代にはヒエラルキーがなかったらしい」とか。
「縄文時代から定住生活が始まったらしい」とか。
なんだそれ!!!!!!!
軽いパニックに陥った。現在の価値観が決して当たり前のものではないと気づかされた。
その中でも、縄文時代の死生観は、コロナ禍でただ震えていた私に一筋の光をもたらしてくれた。
「現代では、死は自分がこの世からいなくなる『消滅』や『無』のイメージを持つ人が多いですが、縄文人にとって、死は『自然に還ってもう一度生まれる』ための出来事でした」
そうか、自分という存在は「この世から消えてなくなる」のではなく、もともと「自然の一部」で、今はたまたま人間の形をしているだけなのだ。100%理解できているわけではないけれど、必死に生にしがみつかなくてもいいと思うと、心が楽になった。
そんな話を優しい笑顔で聞いてくれたママ。終活スナック「めめんともり」で、久しぶりに原点に返った気持ちになった。
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