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無色透明なエルガーに物足りなさ ラトル/ロンドン響

ミューザ川崎でロンドン交響楽団を聴く。

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」から 前奏曲とイゾルデの愛の死
R.シュトラウス:オーボエ協奏曲
エルガー:交響曲第2番 変ホ長調 

指揮:サー・サイモン・ラトル
オーボエ:ユリアーナ・コッホ(ロンドン交響楽団 首席オーボエ奏者)
管弦楽:ロンドン交響楽団

9000円は今の私にはキツイが、現代を代表する巨匠を一度聴きたくて行った。
イギリスの指揮者とオーケストラでお国もののエルガー。
ラトルのエルガー2番が日本で聴けるのは最後かも。ブルックナー7番はまたありそうだが。

開演前にすでにステージに大勢の団員がいた。
ソリスト席に黒服の女性が立っている。不在の団員をチェックしているようだ。全員揃うと退場し、コンマスがチューニングを始める。
時間になってから団員が入場する日本のオケより効率的だ。

ワーグナーもR・シュトラウスも私には馴染みのない曲。
冒頭、ラトルの棒で低弦から繊細なピアニシモが引き出される。すでに一流オケの雰囲気がある。

見ていて面白かったのは、音が指揮棒よりかなり遅れて出るところ。
タメてグイッと出てる感じだった。

ラトルの指揮姿は結構特徴的かも。
指揮ものまねの好田タクトさんのレパートリーでもあったろう。
頻繁に横を向く。それも身体ごと。献身的な指揮ぶりだ。

それにしても今日のプログラムは3曲とも後期ロマン派でまったりしている😅
エモーショナルな響きが切れ目なく続くのでやや飽きが来る。メリハリが欲しいと思ってしまった。

ロンドン響のサウンドは無色透明で無臭。インターナショナルオケにありがちだが、正直物足りなさはある。
ドイツっぽさもイギリスっぽさもない。イギリスのオケはもともと無国籍感が強いが、エルガーを再び聴くならBBC響とかイギリスの1.5流のオケで、A・デイヴィスのような名匠系のイギリス人指揮者で聴いてみたい。

今日のエルガーとこちらを聴き比べてみてほしい。

色彩感豊かなエルガー

今日のラトルとは対極の色彩感に富むエルガー。
好みはあるだろうが、私は断然トムソン盤に軍配をあげる。

R・シュトラウスのオーボエ独奏もそこまで魅力を感じなかった。
モーツァルトの協奏曲だったら違った印象かもしれない。
管楽器の演奏会はめったに行かないので、オーボエ協奏曲は初めてだったかもしれない。

<ソリスト・アンコール>
ブリテン:オヴィディウスによる6つの変容から Ⅰ. パン

協奏曲の後のカーテンコールでユリアーナさんがオケに深々一礼して、ラトルもオケに一礼して、その後ラトルがユリアーナさんの頭をげんこつでこづいていたのは何だったのだろう。R・シュトラウスで間違えたのだろうか?😅

アンコールのラストは突然終わってしまった。捉えどころのない曲だった😅

エルガーは先ほど書いたように無色透明。自分の好みではなかった。第2楽章途中から集中力が途切れてしまった。
オーケストラの機能美ばかり目立ち、音楽がどこか別の世界に連れていってくれないのが不満だった。
最後まで「音楽」より「楽器の音」を聴いているという印象だった。

<オーケストラ・アンコール>
ディーリアス:歌劇「フェニモアとゲルダ」から 間奏曲

アンコールの前に日本語でスピーチ。「日本の皆サン、アリガトウゴザイマス」だったかな。続いて「ミューザ、ブラボー」と。このホールはラトルのお気に入りのようだ。

フルートとオーボエが活躍する曲だった。さすが海外オケは木管のレベルが高い。

9000円払って世界一流の巨匠を聴けたのはよかったが、今日の演奏を再び聴きたいとは思わないし、9000円払ってそれなりのレストランでご飯食べた方が自分にとっては刺激的だっただろう(高い店ふだん行かないけどね😅)

最後に恒例の聴衆マナーの愚痴。

最前列で足組んで聴いてたおっさん、何なんだ。失礼にも程がある。ごぼうの党か。

足を組んで聴いてるおっさんは同じ列にも。つま先でサンダルがぶらぶら揺れる。
しかも、太ももを叩いたりさすったり。何考えてんだ?

こういう奴は家でテレビ見てる感覚なんだろう。公共の概念がない。
私の持論だが、スマホの発達がマナー低下を招いたと思う。

電車はかつて公共の典型だったが、いまやイヤホンをしてスマホをがっつり見る超私的な空間に。
周りの人間に目もくれない。マタニティマークもヘルプマークも見てもらえないのなら意味がない。

こういう奴はそれなりに高い金を払って何をしに来てるのだろう。
ドレスコードのある高級レストランの料理を部屋着でタバコ吸いながら食いたいってタイプかもしれない。
音を聴くということは耳を澄ますということ。
耳を澄ますと自分の出してる音にも自然と耳が行くはずだ。

「聴く」に限らず、「見る」の価値も現代では下がってしまった。

以前、枯山水石庭で有名な龍安寺の回廊に座ってぼーっと石庭を眺めていたら、スマホで写真を撮る人が目の前を右へ行ったり左へ行ったり。

印象派の展覧会でも撮影可能の絵の前でパシャパシャ撮っている人が多かった。

奥井紫麻さんのピアノ・リサイタルでも動画を撮ってる人が多かった(アンコールは撮影可能だった)。

私は芸術の感動は一回性にあると思っているので、これらを撮影しようとはまったく思わない。
記憶の中だけでとどまるから価値があるのだ。現に朝比奈やヴァントのブルックナーは今でも私の中で鳴っている。

30年後、音楽を聴いている人はいるだろうか。
音楽の残像を追いかけている人がさらに増えるのではないだろうか。
高いお金を払って音を聴く意味は、音楽以外のものも聴こえたり感じ取れたりすることにあるのではないか。

何もかも喧しい現代において、お金を払ってまで耳をすますのであれば、ふだんは意識しない世界の綾まで感じ取ろうという姿勢こそが音楽に向き合う姿にふさわしいと私は思う。

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