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演奏中にプログラムを読む人たち ネトピル/読響

サントリーホールで読響定期を聴いてきた。

指揮=トマーシュ・ネトピル
ヴァイオリン=ヴィクトリア・ムローヴァ

ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77
モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K. 183
ヤナーチェク:狂詩曲 「タラス・ブーリバ」

今日の演奏会、プログラムがプログラムだけにロシアとウクライナの現在の関係のように緊張感に満ちたものかと思いきや、まったくの期待外れ。
手堅いだけのコンサートだった。

5段階で感動度を挙げるなら、順に1→2→4になる。

目当てで行ったムローヴァのショスタコーヴィチは期待外れ。
ただ、演奏開始からまわりでプログラムを読む人が多発したせいで繊細極まるこの曲を味わう心境に水をさされ、集中力を大幅に削がれたせいもある。

私は以前、木嶋真優と藤岡幸夫/シティフィルでこの曲を聴いたが、そちらの方がはるかによかった。

木嶋さんは最近テレビのバラエティによく出ている。
クラシック界で清塚信也さんなみにトークができる数少ない演奏家なわけだが、肝心の演奏も素晴らしい。
ロストロポーヴィチのツアーに帯同されて、この曲の教えも受けたらしい。

ムローヴァはロシア出身だけに期待を高くしていたが、いたって普通の演奏スタイルだった。
ベートーヴェンかブラームス?ってくらい、クラシカルな奏法に感じた。

木嶋真優はもっとロックテイストで、火花が飛び散る一期一会の名演だった。

今日のムローヴァは手に汗握る感じではなかった(こちらの精神状態にもよるから今日の印象だけで彼女の芸術を語るのは危険だが…)。

第3楽章パッサカリアの前に念入りにチューニング。
カデンツァのときはさすがに場内静かになって緊張感があった。
繰り返しになるが、奇を衒わない演奏。王道ならかまわないが、模範的?なショスタコーヴィチは私の好みに合わない。

私はマケラの「レニングラード」よりノットの4番が好みだし、テミルカーノフが読響とやった「レニングラード」もベートーヴェンみたいな威風堂々で違和感があった。

ロシア人がやるロシアものに違和感というのもおかしな話だが、ショスタコーヴィチに関しては背筋が凍るような痺れる演奏が好きなのだ。
あまりにヒロイックな演奏は好まない。

アンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番からサラバンド。

これも興醒めというか、プレトニョフが「わが祖国」のアンコール(!)で「G線上のアリア」をやったときのような虚しさに襲われた。

今日のプログラムでバッハがベストのアンコールとは思わないけどなぁ。
ひねりがない。「とりあえずバッハ」って感じで。
古楽に精通しているといっても、演奏の方もいくらなんでもあっさりしすぎてないか。だから一層おざなり感を覚えたのかも。
庄司紗矢香やヒラリー・ハーンなら今日のプログラムでバッハ選んでないと思う(庄司紗矢香のアンコールは毎回凝っている)。

さて、後半はモーツァルトの交響曲第25番。
前回ネトピルが読響に客演したときに「プラハ」や「シンフォニエッタ」をやったようなのでその流れもあるのかもしれないが、実際ショスタコーヴィチの後に聴いてみると、温泉旅館で刺身と天ぷらのあいだにナポリタン出されるくらいの違和感があった。

ロシアとウクライナを短調の劇的なモーツァルトがドッキングするのはナイスアイデアかも!と始まる前は思っていたが、実際聴いてみると時代も様式も違いすぎる…(ハイドンと現代音楽なら意外と合いそうだが)。

ネトピルはエッセン歌劇場の音楽総監督だとか。
初めて聴く指揮者だが、「手堅い」というのが一番の印象。
オーケストラの面々が(いい意味で)冷や冷やしながら弾いてる様子がなかった。みんな余裕を感じてしまった。

さて、トリの「タラス・ブーリバ」が一番よかった。
事前にWikipediaやプログラムを読んでいたのにパイプオルガンの入る曲だとうっかり見落としていた。急にオルガンが鳴り出してびっくりした。
サントリーホールのパイプオルガンを聴くのは初めてだったかもしれない。

ヤナーチェクの管弦楽曲は村上春樹の『1Q84』が流行ったときに「シンフォニエッタ」を初めて聴いたくらい。
「タラス・ブーリバ」はまったくの初体験。

ドイツともフランスともロシアともイタリアとも違う。
チェコの音楽は日頃ドヴォルザークやスメタナくらいしか聴かないが、西欧の音楽とは全然違うなぁと聴いていて思った。

何かに似ていると思ったら、初めてガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだときの感覚だ。
ガルシア=マルケスはコロンビアの作家で、南米の作家たちの文学はラテンアメリカ文学と呼ばれる。
まったく読んだことのない人も多いのだろうが、ヨーロッパ文学とは全然違う土臭さがあり、また文体も独特の粘りがあって私は好きだ。

クラシックを聴き始めて四半世紀経つのに「タラス・ブーリバ」のような名曲を聴いたことがなかった。
油断してるとハイドンやバッハばかり聴いてしまう😅
未聴の名曲をどんどん聴いていって、多くの違和感と出会いたい。
心地よさに安住していては感性が衰える😅

今日はソロカーテンコールがなく、団員が握手を始めるとすぐに退場のアナウンスが流れた。
まあその程度の演奏だったということだろう。

フライング拍手は注意喚起のアナウンスを毎回しているせいもあり最近減ってきた。
演奏中にプログラムをめくる行為に関して注意喚起しないということは「周りに配慮して静かにめくればOK」ってこと?
実際は結構耳障りな音がする(出してる本人は自覚ないんだろうけど)。
オーケストラ(の事務局)は息を呑むほどの繊細な音を聴かせたいとまでは思ってないんですかね。

私の感覚からすると膝の上に物を置くこと自体どうかと思う。
手に何か触れると音がして当然だからだが、女性はハンドバッグを床に直置きできないからその程度は仕方ない。
退屈な人の暇つぶしで音を出されてこちらの鑑賞に支障が出るのが腹立たしい。
薔薇園を鑑賞してたら隣でタバコ吸われるようなもの。

先日東響のニコ生中継を見ていたら(ノットのベートーヴェン2番)、飴袋に関して注意喚起のアナウンスをしていた。
長くコンサート通いしているが、飴に言及したアナウンスを聞いたのは初めてだった。
東響はプログラムで「演奏中にプログラムやスコアをめくる行為」についても言及しているし、コンサートマナーの向上に意欲的だ。

今日は飴袋の音も頻発していた。フライング拍手は毎回アナウンスを徹底するのに、飴袋やプログラムの音はなぜセーフなんでしょう。
私は一向にわかりません。文庫本読み出す人がそのうち出てくるかもしれませんね。

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