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「伝統とは未来へつなぐ願いである」という話

皆さんは「伝統」という言葉を聞くと、どのような印象を持ちますか?

デジタル大辞泉で「伝統」の意味を調べると

ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。


と書かれていますが、恐らく多くの人が同じような印象を持たれているのではないでしょうか。つまり、伝統と言えば古くから受け継がれてきた「習慣」や「しきたり」という“形骸化した物”、あるいはそれに縛られている古い考えというイメージです。

しかし、歌舞伎や浮世絵といった伝統文化や伝統芸能、あるいはというと同じ「伝統」という言葉でも、世界に誇る日本独自の文化として肯定的なイメージになります。恐らくこれには”海外、特に欧米の文化と制度の方向性に沿ったものであるかどうか”という判断基準が大きく影響していると思われます。

ところが、同じ日本独特の文化や制度でも海外で評価されないもの、例えば終身雇用、年功序列のような日本独自の価値評価のものだと、”古臭い”、”日本的”だと否定的な評価になります。

同じ伝統的なもの、日本独特のものでありながら、なぜそのように受け止められ方が変わるのでしょうか? さまざまな理由がありますが、一つには多くの人の中に

「伝統=古いもの」

「古いもの=伝統」

というイメージがあり、それがここ数十年の日本の停滞と相まって「古い伝統に縛られているから日本は駄目なんだ」というイメージが浸透しているからではないでしょうか。ただ、「伝統」と「古いもの」は必ずしもイコールではありません。伝統が必ず古いものではないし、逆に古ければ何でも伝統になる訳ではありません。

では、伝統とは一体何なのでしょうか?

普段関心を持たないような、どうでも良いような問いですが、実はこの伝統に対する無関心が私たちや子供たちに大きな影響を及ぼすとしたらどうでしょうか?

今回はこの「伝統ってなんだ?」という問いを少し前に世間を騒がせた「9月入学制度への移行問題」を例にとって考えてみたいと思います。

一見伝統とは関係のなさそうなこの話題。

しかし、よく考えると普段全く無関心な「伝統」というものが、私たちの生活に深く関わっているという事実が見えて来るのです。

ではでは、前置きが長くなってしまったので、早速中身に入っていきましょう (前置き長すぎてすみません!(笑))。


なぜ9月入学の議論が起こるのか

さて、この9月入学制度への移行という話がにわかに活発になったのは今年の春。きっかけは、コロナ禍での非常事態宣言により子供の学習時間が十分に確保できなくなるという懸念が生まれたことです。子供が全く学校に通えなくなり、自宅学習、オンライン学習で代用する日々が突然やってきました。

ただ、この「現在の3月卒業、4月入学という学制を9月入学の学制へと変更すべき」という話は、それ以前からずっと議論の俎上に上がっていることでした。昨年も大学の秋入学への移行という話があったのを覚えてらっしゃる方も多いかと思います。あれも同じ類の話です。

※本当は小中高と大学で議論は異なるのですが、今回はその議論は省き、小中高の学制についての話にします。

この議論の出どころは主に2つあって、一つは経済界からよく出てくる要望。

その理由を端的に言えば、「9月入学がグローバルスタンダードなのだから、それに合わせろ。そうすれば、欧米の学校に日本人の学生が留学しやすくなるし、海外の学生も呼び込みやすくなり、ビジネスチャンスが広がる。」というものです。

また、もうひとつの出どころは教育界。彼らの主張は昨今の日本の教育の質の低下の原因を、この日本の教育制度がグローバルスタンダードから外れているという点に求める説にから生まれたものです。「グローバルな教育に合わせれば、日本の教育の質は上がるんだ」というやつですね。よく話題に上がる英語教育の必修化もその流れで、 現場の教育者というよりも教育ビジネス業界からの要望と言った方が良いかもしれませんが。

そもそも9月入学はグローバル・スタンダードなのか?

先程も書いたように、9月入学を推進する人たちが声高に叫ぶ根拠は「それがグローバルスタンダードだからだ」というものです。

ですが、そもそも本当に9月入学がグローバル・スタンダードなのでしょうか?

ニッセイ基礎研究所のレポートによると、下記のようにかなりばらつきがあるようです。

1月 シンガポール、マレーシア、バングラデシュ、南アフリカ
2月 オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル
3月 韓国、アフガニスタン、アルゼンチン、ペルー、チリ
4月 日本、インド、パキスタン
5月 タイ
6月 フィリピン、ミャンマー
7月 米国
8月 スイス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、台湾、ヨルダン
9月 英国、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、ギリシア、ロシア、カナダ、メキシコ、キューバ、中国、インドネシア、ベトナム、イラン、トルコ、サウジアラビア、エチオピア、ナイジェリア
10月 エジプト、カンボジア

出典: https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61449&pno=2&more=1?site=nli

 欧州ではたしかに9月入学の国が多いようですが、アメリカでは州によるものの基本的には7月入学が採用されています。

このように見ると欧州では9月入学が多いものの、グローバル・スタンダードといえるものではありません。 

130年程度では伝統にならない?

また、4月入学から9月入学に切り替えるべきと主張する人たちの論拠として、「そもそも4月入学も明治時代に定められたもので、江戸時代の寺子屋制度では特段の決まりはなかった。4月入学は日本の伝統でもなんでもない。」という指摘があります。

実際、日本の4月入学制度が始まったのは明治19年。それ以前の寺子屋制度時代ではむしろ家や地域の状況に合わせて自由に出たり入ったりできるのが普通で、特別な決まりがなかったようです。

 ただ、それをもって「伝統でもなんでもないのだから、海外の基準に合わせてしまっても何も問題ない。」と切り捨ててしまうのは、いささか早計ではないでしょうか。

 明治19年といえば130年以上前。歴史の浅いアメリカで言えば、130年も続いているといえば紛れもない「伝統」だと思いますが、二千年以上の歴史を持つ日本という国で考えれば「130年程度で何を」という考えなのでしょうか(笑)。

冗談はさておき、恐らくそのように主張は、明治期に国家によって人工的に作られたものだから「伝統」とは呼べないという意味なのでしょう。このような論調を「創られた伝統論」と言います。創られた伝統論とは、ある文化や制度が自然発生的に生まれたものではないという理由で、その価値を揶揄して切り捨てる考え方です。

 この考えによれば、

「歌舞伎や能といった文化は自然発生的に生まれたものであるから伝統である。」

ということになる一方

「4月入学は明治時代に国家が決めたことで、自然発生的に生まれたものではない。だから伝統ではない。」

ということになるわけです。

確かに一見理が通っているようにも思います。しかし、本当にそうでしょうか。

例えば日本の伝統芸能の筆頭とも言える「能」は、その発展において室町幕府の庇護があったことは有名です。足利義満以来の歴代の将軍は能だけでなく、茶道、庭園など、現代に続く伝統芸能を大切に保護してきました。国家や政府が関係するかどうかは、伝統か? 伝統ではないか? という議論にはあまり関係ないのです。

では、伝統とは何なのでしょうか?

何が「伝統」と「伝統じゃないもの」を分けるのでしょうか?

 

伝統とは「子や孫に引き継ぐ価値のあること」

 伝統とは何か?を考える上で、非常に参考になるのが「表現者クライテリオン」という雑誌の2020年5月号にて、柴山桂太京都大学准教授が寄稿している「伝統論再考ー創られた伝統論の意義と限界」です。


この中で柴山氏は"創られた伝統論”の論評をしています。創られた伝統論とはざっくり言うと「伝統なんてものはよくよく調べてみれば、比較的最近作られたり、どこか別の国から持ってきたりしたもので、ほとんどが近代の創作である」という説です。

確かに私達が伝統だと考えているものも、実はそれほど長い歴史を持ったものではなかったということはよくあります。また、時には国家権力によって意図的に生み出されたものもあるでしょう。

「伝統論にとって重要なのは、伝統が創造されたという事実ではなく、その伝統が定着したという事実の方である」(柴山)。

 

また、柴山氏は同寄稿の中でスコットランドの民族衣装キルトで使われることで有名な「タータンチェック」について取り上げています。

タータンチェックはスコットランドの伝統的な柄だと認識されていますが、実はベルギーのフランドル地方からの輸入品などから取り入れたもので、純粋にスコットランド伝統のものではないのだそうです。

物によっては古い歴史を持つものもあるそうですが、タータンチェックにも色々なバージョンがあるようで、地方によっては19世紀や20世紀になって創り出されたものもあるのだとか。

 

いわゆる「創り出された伝統」論では、そのような例を出して伝統の価値を貶めることがあるようです。

柴山氏は次のようなスコットランドの氏族長の言葉を引用しながら、そのような「創り出された伝統論」に反論します。

ちょっと長いですが、伝統の本質をとらえた素晴らしい文章だと思いますので、引用させていただきます。

「私のクランタータン (注:タータンチェック柄のこと)は1950年代にデザインされて以来着られています。いわば五十年もののタータンというわけです。歴史としてはとても浅いですが、父も私も、子供たちも来ています。四代目、五代目へと続いていくことでしょう。」
この氏族長は、一族のタータン柄が浅い歴史しか持たないことを自覚している。それでも、子や孫の世代へと受け継いでいかなければならないと考えているここには伝統について考える上で重要な論点がある。伝統を次の世代に受け渡さなければならないのは、その伝統が長く続いてきたからという事実によるだけではない。次の世代にとっても価値があると思うからこそ、受け渡すのである。言い換えれば、伝統の真価を決めるのは過去への憧憬である以上に、未来への意思ということだ。伝統は、過去世代にとってだけでなく未来世代にとっても価値あるものだ。今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いででほしいと願うものーそのようなものこそが、伝統としての力強さを持つ。(表現者クライテリオン 2020年5月号 P174)

 

 伝統とは「伝統だから大事にしなくてはならない」というような押し付けではない。

伝統とは次の世代にも引き継いでほしいという”願い”である。

私はこの”想い”にこそ伝統を大事にすべき本質があると思いますし、だからこそ闇雲に形だけ守ることが伝統を守ることにはならないのだと思います。

 

桜が象徴する4月入学という伝統

では、4月入学は伝統足りえるのでしょうか?

それを考えるときに私が重要だと思う”あるモノ”があります。

それは「桜」です。

桜は日本人にとってとても重要な意味を持つ花です。旅立ちや別れ、あるいは新しい仲間との出会い。そんな「寂しさ」と「未来へのわくわく感」を内包した不思議な感覚を桜は持たせてくれます。

桜は世界中にありますが、桜を目にした時にそのような感情を抱くのは日本人だけ。しかも老若男女問わずあらゆる世代に共通した感情です。

 

私は「3月卒業・4月入学」という日本の学制は、この感情に非常に強い影響を与えていると思います。

卒業は多くの友人たちとの別れを伴います。それと同時に自分がこれから向かう世界へのわくわく感と言いしれぬ不安感をも引き起こします。だからこそ、この時期に咲く桜という花は、一言では表現できない複雑な感情を凝縮した存在となっているのです。

だかこそ、日本には昔から桜を主題とした歌が数多くあり、ドラマや映画などでも出会いや別れには桜が非常に多く使われるのです。そして、多くの日本人はこの桜 (が持つイメージ)を子どもや孫の世代に伝えていきたい思っているのではないでしょうか。

 

そして、このような感覚こそ先ほど述べた柴山氏が言う「今の世代がその価値を認め、次の世代にも引き継いでほしいと願うもの」・・・すなわち「伝統」だと思います。

桜という花そのものは伝統にはなりえないかもしれない。しかし、それに象徴される複雑な想いは日本の伝統として残していくべきものだと信じます。

 

もし4月入学という学制が崩されてしまったら、このような感覚を世代間で引き継いでいくことは難しくなるのではないでしょうか。数十年後、自分が孫を持った時に「中学校に入学する時に桜がいっぱい咲いていてね」とか「桜の時期は別れの時期だからね~」とか言っても、孫たちには「は? なんで? 桜なんてただの花じゃん。」としか理解されない。

私たちが感じる桜を見上げた時の言いしれぬ感情が、つぎの世代とは共有できなくなる・・・私はそれはとても辛くて、寂しいことだと思います。

だからこそ、そんな未来を招きかねない選択をありもしない「グローバルスタンダード」に合わせるために行うことは、とても賢明とは思えません。

 

グローバル以後の社会に求められるもの

さて、そろそろ結びに入ろうと思います。

ここまで私が述べてきたことは、果たして過去に憧憬を抱く感傷に浸るだけのセンチメンタルな感情でしょうか。そして、そのような感傷はこれから激動を迎える世界で日本が生き残るうえで不要なものでしょうか。

そんなことはありません。むしろこれからの激動の時代で日本が生き残るためにこそ重大な意味をもつと思います。

なぜなら、このような私たちが当たり前すぎて有難みを感じなくなった些細な経験こそが、社会のつながりや国民の絆を強くするからです。理屈ではなく、感情で分かり合える、通じ合える、そんな共感があるからこそ、人々はお互いにちからを合わせることができるのではないでしょうか。

 

 

2008年のリーマンショック、英国のEU離脱、トランプ旋風、そして激化する米中貿易戦争。今の社会は確実に脱グローバル化が進んでいます。さらに新型コロナウィルスの感染拡大により、世界中の国が自国を守ることに必死となり、それを隠そうとしていません。この流れがこれからますます激化することは避けられません。

そのような時代において、世代格差や社会格差が拡大し、皆が皆自分の利益しか考えないような国では絶対に生き残ることができません。経済的、社会的に強固な結びつきがますます重要になってきます。

だからこそ、私たちは日々の何気ない出来事の大切さについて、そして現在の自分たちと子や孫たちの絆を作るものは何なのかについて、改めて考えなおす必要があるのではないかと思います。

 今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(__)m


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