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ちあきなおみ~歌姫伝説~38 歌手とは・後篇

前回からのつづき

 また、ちあきなおみは、「譜面(楽譜)が読めない歌手は歌手ではない」と語ったが、これはどういう意味なのだろうか、と私は考えてみる。
 その言葉どおり、ちあきなおみは歌う前には常に譜面を凝視し、歌詞はノートに自ら書き込み読み返していた。それはドラマの収録現場でも変わらず、カメラリハーサル、ドライリハーサル、ランスルー、そして本番直前に至るまで、この場では譜面であるところの台本を離さず、最後の最後まで思案を巡らせているかのようだった。
「特に古い歌は、歌っているうちにどんどん原型から遠いものになってしまう」というのがその理由である、ということだった。
 だが・・・・、と考えてみる。
 私はちあきなおみが譜面や歌詞を射貫くように見つめるその姿に、歌の原型との葛藤というよりも、虚と実とのあわいに新しい葛藤を引き起こそうとすることを目論んでいるかのような印象を受けていたのだ。
 ちあきなおみが言う「原型」という意味は、昨今のカバーソングブームにおける音楽評論家たちの慣習である、あらかじめレコードされプレスされた歌の原型と、実際に今、歌われた歌との落差や対比ではなく、むしろ、常に原型に帰ることで検証を加えつづけ、その歌をただ復元することを回避し、原基を捨てることで、その歌に見落としていた意味や理解、歌が持つ世界の再発見を目指す、という意味合いであるだろう。ある意味私は、評論家が元歌との距離に知性的な複雑で難解な解釈を加えれば加えるほど、その歌は実態の輪郭を薄めてゆくことになるのだ、という疑念を声を大にして差し挟まないわけにはいかないのである。
 ちあきなおみが歌の譜面や詞を大切に扱うのは、その最たる原型の中にある歌の奥行や行間を、できる限りに詰めてゆくことではなかったであろうか。それは、歌に内包された世界の幅を無意味に広めてゆくことではなく、逆に、絞り込んでゆく作業であったと思われる。
 歌うという行為と実践は、音符(作曲)とも言葉(作詞)ともまったく異なる手段で、聴き手の想像力に訴え、編成し、歌世界へと導く表現手法だということなのだ。
 譜面を読むとは、音符を眼で追うことではなく、歌い手がその歌の世界を理解するための謎解きであるのかもしれない。謎解きといえば、推理小説においては、犯人が仕掛けて探偵が解く、というのが定石であるが、その実、作者が創作し探偵をとおして読者が読み解くのであり、歌もまた同じように、聴き手各々が歌手を媒介にして歌の世界観を聴き解き、感じるのである。
 しかしながら、歌とは非常に観念的な要素をはらんでおり、答はひとつではなく聴き手の数だけあり、小説の中の事件のように、具体的状況証拠や科学的証拠などに基づいて推理するわけにはいかず、コナン・ドイルが名探偵シャーロック・ホームズをもってしても解明するのはきわめて困難であるのだ。
 そこで歌い手は、その歌の世界である、現実ではないもうひとつの世界を聴き手とともに構築し実現するために、荒唐無稽な歌にひとつの答を出して歌う必要性を追うこととなるわけである。
 私はちあきなおみのステージを幾度となく舞台袖から観たが、ある時期、同じ曲を歌うときに、なんとか歌いまわしの中にその答を見つけようと躍起になったことがある。「喝采」「矢切の渡し」「紅い花」などは常にセットリストに入っていたので、目を凝らし耳を澄ますのだが、そこには答どころか、いつも明らかに異なる世界が展開され、聴き手が埋めるべく空白が残されているように感じたのである。
 おそらく、ちあきなおみはひとつの歌にその感性で無数の答を導き出し、その日その場所その状況次第で、自由に答を操りながら新しい答をもまさぐりつづけていたのではないだろうか。ライブにおける歌は、レコードされた歌とは違い、もうひとつの世界の支配者である歌い手によって、始終、どこでどう変容するか見当がつかない生ものであり、その意味では実に怖い、信用できない獣のようなものでもあるだろう。私は、歌が耳を捉え、その物語が動きはじめたとき、ただ同じ歌を聴くことから、同じ歌を想像力によって別体験することへと誘われたものである。
 ライブに限らず、ちあきなおみの歌が語られるとき、
「一篇の映画を観たようだ」
「自分の体験と重なり合い共感できる」

という声が多くを占めるのは、聴き手が歌の物語に参加し、ちあきなおみとの共同作業によって空白を埋め、ひとつの歌を創り上げることを現実のものとしているからである。
 それには、決して歌の上手さを誇示することなく、押し付けがましくない、ひとりよがりにならぬ、感情移入の引き算による独特の歌唱法というものもあるだろう。
 この歌唱法の中には、他の追随を許さぬ数限りない技術が散りばめられている。その技術とは、言い換えれば、ボイストレーニングや経験で培ったものであるという以上に、生まれながらに授けられた能力と言えるかもしれない。
 コンサートなどのリハーサルで私が目撃したのは、いつ、なんどき、どこからでも、ピタリと正確な音程を捉えられるという能力である。それまでに、音への模索やアプローチは一切ないのである。ゆえに、自由自在に歌い出しの折というものを操ることができるのであろう。歌詞の中の言葉を少しためたり、また追立てたりするだけでも、歌の世界観は変容してしまうものである。このあたりに、私はまさにプロ中のプロの歌手といった趣と、ちあきなおみの天才を感じていた。
 ステージ本番の歌唱中にも、私は同様の思いを抱いた。それは低音域におけるしっかりとした安定感と、地声か裏声かわからない一瞬の高音域への自然な移行法である。どちらも張りのある響きがあり、喉や首の筋肉の柔軟さを感じさせると同時に、鼻や口での息継ぎや、腹式・胸式呼吸の正確さが窺われた。そしてなによりも私が度肝を抜かれたのが、「TOKYO挽歌」(作詞・吉田旺 作曲・杉本眞人)のラストにおける、叫びのような超高音域の発声である。どこまで昇り詰めてゆくのか怖くなってしまうほどの狂気を感じさせる即興の歌声であるが、敢えて音程を外してゆくようでありながら、曲の末尾は決して乱れることなく鮮やかにけりをつける。この歌声は、「夜へ急ぐ人」のテレビ歌唱時の映像でも見聴きすることができるが、溜飲を下げるような、胸のすくほど見事な表現技術である。
 私は一度、コンサートの舞台袖でその表現に感嘆し、演出を担当していた松原史明にちあきなおみの歌唱法について尋ねたことがある。

「ちあき君の凄さの秘密は、耳のよさと、あの強靭な顎にある」

というのがその答だったが、私はその他に、腰の強さというものも感じていた。歌唱時において、手振り身振りで音のバランスを操ることなく、その直立不動にも近い姿勢からの発声のよさと、アクションや振り付けをした際の、腰に掛けた重心でリズムをとるかの如く姿をよく見ていたからである。
 そして今一度じっくりアルバムやライブ映像を見聴きし直してみると、こぶしのまわし方やビブラートの効かせ方、声音を次第に強めたり弱めたりといった、クレッシェンド・デクレッシェンドのコントロールの精巧さ、歌詞の緩急のつけ方や、息漏れをさせない独特のマイク捌きなど、多種多様の技術を歌のジャンルによって多彩に使い分け、実に自然に表現しているのが確認できるのである。
 常にちあきなおみの歌に聖なる一回性を感じるのは、このような卓越された能力とともに、一曲の歌をリスペクトして手間を惜しまず、技術力を駆使し、想像力を駆使した、単に譜面の複製や模倣とは異なる歌だからであろう。そこに、作者の、歌世界における幻想の独裁を拒み、譜面からもはみ出し、聴き手に問い掛けるように語り、作者が書き込めなかった感情のひずみをも、鋭く見つめ具現化している歌手の力量があるのだ。
 ちあきなおみの言葉は、譜面を蔑ろにする歌手に、譜面を超えることはできず、作者の作意を理解できぬ歌手に、聴き手の心を根底から揺さぶる歌は歌えないということではないだろうか。
 そして、ちあきなおみはその二三年間に及ぶ歌手活動の中で、作詞・作曲を一度もしていない。

「歌手は、地道な仕事ですよ」

 この、ちあきなおみの言葉の根底に、作者によって記述された歌詞とメロディと自身との狭間で、一意専心歌うことに己を打ち明けながら思考しつづけた歌手の、至要たる歌の真実があると思われる。なぜなら、文字と音符を眼で追いながらその歌世界に敢然と取り組み、歌の原型から逸脱して聴き手の想像世界を限りなく増幅させ、単に一曲の歌を聴くということを、ひとりの人間の人生を体験させるに至る非日常的行為へと昇華させる、ちあきなおみの地道な仕事たる真髄が、まさしく多くの歌の中に散りばめられていることが実感されるからである。
 その仕事は、己を突き詰め、厳しく、苦しく、逃げたくなるほどのものであり、私などが思う以上にマゾスティックなもので、孤独なものであるだろう。
 ちあきなおみの表現とは、そういうものであるのかもしれない。
               つづく

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