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ちあきなおみ~歌姫伝説~37 歌手とは・前篇

 規制を飛び越え、のっけからオールスタンディング状態となった客席に、薄暗がりのステージから天空に突き抜けるような歌声が響き渡ってくる。
 視線の先にはっきりと映り、鼓膜を圧してくるのは、私を郷愁へ導いてゆくひとつのシルエットだった。その中には、幾人ものフォークシンガー、ロックスター、そして、伝説の歌姫が幻影のように付帯して見える。と、四方からのライトがステージセンターを照射すると、あいみょんがギターを掻き鳴らし、魂を抉り出すかのように熱唱をつづけていた。
 ステージ両サイドに設置された巨大スクリーンは、一音節、一句ごとの表情の移り変わりをライブ中継している。多勢によるグループへのスポットライトが主流となった観があるこの時代、昭和時代の歌手のように、ただひとりだけで画面に映え、十分に持ちこたえる豊かな存在感がこの歌手にはある。
 歌詞の中に、「太宰治」「ジョン・レノン」などが登場してくるのは、私の世代にとっては嬉しくもあり、若い世代のファンには斬新でもあるのだろう。
 そして、歌の中にある、昭和歌謡のような切ない感じのエッセンスは、あの古き良き、昭和の格調高い音楽シーンを心の中に呼び起こす。時代の潮流にまったく媚びないその歌は、久々に、やっと出現した歌魂を感じさせるのである。
 そしてなによりも、私はあいみょんの低音でハスキーな歌声に、ちあきなおみ山口百恵中島みゆきと同じような、哀感を誘う声質を感じていた。その歌声は高音へ移行した際、これ見よがしな裏声を使うことなく自然で美しく、夢を覚まさない心地よさを聴者に与える。
 ステージとスクリーンを交互に見やりながらこのようなことを考えられるのも、声を出すことを規制され、静かに歌だけを聴くことができる、このご時世による好機なのである。
 それにしても、生ける伝説の延長線上にあいみょんを置いてしまうのは、個人的な、あまりに個人的な体感ではあるが、私はこの四人の歌手の中に、〝女の悲しみ〟や〝女心の遣る瀬無さ〟を表現し切ることができるという、一本の糸を繋いでいるところがある。それは私の勝手な流儀上における感想の域を出るものではないが、ちあきなおみがその歌に対して持っていた世界観の中に、悲しみというものを強く存在させていたのは間違いないのだ。
 私はマネージャーになった当初、どのような歌が好きであるのかを尋ねたことがある。

「悲しい歌・・・・」

 なんのためらいもなく、ちあきなおみは即座にこう答えると、遠くを見てふと笑った。
 それは悲しみを持たない私への嘲笑ではなく、悲しみを持つ自身へ向けられた苦笑、といった趣があった。その中で幼い頃より人間というものを歌いつづけてきた身には、人は、そして女というものは、どのようなときに笑い、泣き、悲しむのであろうか・・・・、ちあきなおみはそのことを身につまされるほど熟知していたのだろう。そしてなによりも、悲しみを恨むことなく、大切にし、子供をあやすように抱きしめながら、自身の歌の中に流し込んでいったものと思われる。
 人間とは本来、許容の範囲を超える量の悲しみを抱えたとき、どうしようもない孤独感に苛まれるものであるだろう。ちあきなおみの歌声に、癒され慰められる、といった声が少なくないのは、歌中の主人公に憑依したちあきなおみの悲しみに関わることによって、孤独から少し解放され、苦しみや辛い思いを一瞬消し去ることができるからであるに違いない。
 昨今、よく耳にする「すでに前を向いている」とか、歌の歌詞によくある「振り返らず未来だけを見つめて」とか、すぐに悲哀を捨て、力ずくでポジティブな視点へと転換を駆り立てる世の中の風潮があるが、喪われた過去喪われそうな愛喪ってしまった人が大切であるならば、その悲しみにも、拒絶することなく寄り添わなければならないのではないだろうか。歌とは、人間の癒すことのできない傷、拠りどころのない思いや想いを共有できる場所でもあるのだ。

 ちあきなおみが歌った歌で、もっとも悲しいと感じる歌を挙げるならば、私は躊躇なく「ねえあんた」を思い浮かべる。
 ちあきなおみは歌手活動の晩年、コンサートやテレビ番組でこの歌を歌った。私は幸いにも、いつも舞台袖からそのパフォーマンスを体感していたが、必ずと言っていいほど涙したものである。それは、歌の中の主人公である「こんな処の女」である「あたし」と、ちあきなおみが重なり合って見えたからだ。単に演じる、ということには収まり切らない〝なにか〟がそこにあったのだ。
 「ねえあんた」は、一九七四(昭和四九)年十月二二日に、東京・中野サンプラザホールで行われた、ちあきなおみの芸能生活十五周年を記念して開かれたリサイタルのために創られた歌であるが、それから十八年後、私は二十代前半でこの歌に出逢ったことは、その後〝なにか〟を考えつづける上での決定的瞬間であった。
 それはきっと、現代に残酷なほど見つからないというものであるのかもしれない。むしろ、現代では滑稽に見えるかもしれない「あたし」の男への愛は、遊女と客という構図の中で、道徳の破壊と幻想を生みながらも社会の秩序によって支配され、袋小路からの脱け道を求めつつも崩壊せざるを得ない。私はそこに愛の不可能性を見出しながら、それを素直に表現する、ちあきなおみの心に内包された悲しい愛を見せつけられたような気がするのである。

 ちあきなおみは、「歌手はあくまでも作者の代理人である」と話してくれたことがあるが、私は長いあいだこの言葉に思案を重ねてきた。それは、本人の歌手としての持論であり、聴き手にとっては、ちあきなおみの歌とは、また別の色合いに染められているであろうと思うからである。おそらく、聴き手側は歌の中に、作者の思いと歌手の思いの二重性を歌として受けとめながら聴くことはなく、まさにちあきなおみが巻き起こすドラマに酔いしれ、引き摺り込まれるのである。
 そこで私は考える。歌とは、譜面に音符が書かれ、歌詞が付けられて、という、それだけではただ物体的な存在として在るだけである。その完成したひとつの物体である世界を、歌手をキャスティングして復元するだけならば、それは歌の実地検証の域を出ず、歌手とは、その歌が自作であれ他作であれ、与えられたメロディを歌い、与えられた歌詞を語り、ただの一瞬たりとも肉声を発することができない歌の操り人形にすぎなくなってしまう。聴衆の前で歌うことで、たとえ楽譜というものから逃れ得たとしても、もうひとつの歌詞という繋縛から自由になることはできない。
 たとえば、歌の中に、ひとりの女の人生がある。恋に破れ、身も心も切り裂かれ、死を決意する。絶望しているのは、歌の主人公であり、歌手自身でもあるように聴き手は感じる。自身は生きたいとどれだけ願っても、歌詞にはそのような記述はない。歌手は歌詞どおりに歌う。
「死んでしまいたい・・・・」
 この作者と歌手、生と死の不条理は、すべて作者の創作上の妄想によって別ち難く紐帯となっている。しかし、創作中に作者の気が変われば、主人公はそこそこ十字程度の書き換えで絶望の淵から立ち上がり、生きることができるかもしれない。だが、この作者の気紛れを忠実に再現し、封建制度のように領地という言葉とメロディを与えてもらい、他人の人生を生きることが表現であるならば、歌手は歌の媒体として、その魅力も、歌唱力も演技力も、作者にステージ上で操られるマリオネットとなってしまう。聴き手がその人形を観賞するだけにとどまらず、歌手との距離の中に相互作用としての伝達や、返り血を浴びせ合うほどの人間的関係を生成できなければ、聴き手にとって、歌とは遠い異国の風景でしかないのである。
 そこで歌手の役割とは、歌というひとつの虚構世界を、劇ではなく劇的なるものとして聴衆とのあいだに組み立てるドラマツルギーを持つことであり、作者の、あらゆる妄想に独自の彩色を加え、自らの言葉で、ありのままの現実をより濃いドラマチックな現実として倒錯させ、呪術的な感受力と感染力で、歌と聴き手との出逢いの場を築くことである。
 ちあきなおみの歌を聴いて、その世界の原風景がすぐさま立ち上がり、頭の中に映像が流れるかのように思われるのは、この歌手が仕掛ける想像力の落とし穴であり、聴き手はあたかも語り掛けられ、触られ、抱かれ、遂にはドラマの中の登場人物となってしまうのである。
 それは、ちあきなおみがその歌に独自の人生を記述し、息吹を吹き込み生命を与え、歌を、ただの物質として在るものから成るものへと変容させ、聴き手とのあいだに魂の交感と連帯を実現させているからである。ここで歌い手と聴き手の、いわゆる、伝え手と受け手の関係は崩れ、ちあきなおみの術中にはまり、聴き手がその想像力によってドラマに加担させられることによって、歌の中に相互的な世界状態を共有し幻想を生むのである。
 ひとつの歌を再現することから実現させ結実させることができる歌手は、作者に与えられた人生の万事を自らの人生で凌駕してみせ、歌の囚われの身から糸を断ち切り脱却してゆくのだ。そこではじめて、ちあきなおみが言うところの、作者の代理人となることができるのではないだろうか。

「様々な人の気持ちを素直に歌い、共感を与える歌手でありたいと思います」

 ちあきなおみのこの言葉は、その歌と同じように、作者と歌手、歌い手と聴き手、自他、虚実を対立概念としてではなく、その地平を取り除き、自身と聴衆との真の出逢いを創生するための肉声なのだ。
               つづく

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