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多様性はイノベーションをドライブするが、効率のブレーキになる(前説)

はじめに(経緯)

2019年10月7日、「十中八九」というサイトで、私と河合純一さん(現・日本パラリンピック委員会委員長、対談当時は日本身体障がい者水泳連盟会長)による対談記事が公開されました。

しかし、以下画像の通り

サイト閉鎖

サイト閉鎖が決定いたしました。
(※なお、本記事を企画した編集長は、サイト閉鎖に伴い新たに「まえとあと」というサイトを展開されています)

この度「個人noteへの移植はOK」と了承をいただきまして、そっくりそのままこちらにへ引っ越しさせることにいたしました。それにあたり
・なぜこの対談が企画されたのか
・なぜサイト閉鎖にあたり「記事を残したい」と思ったのか
について、まずは語っていきたいと思います。

河合さんとの対談を受けた理由

日本には、体育・運動・スポーツ、と大体同じような意味合いで使われる言葉があります。3つの言葉は少しずつ意味合いが違います。しかし実際は、差異について気にすることよりも、「なんとなくイメージするアレ」をあの人はスポーツといい、あの人は体育といい、あの人は運動という、といった言い回しの違いのほうが多く出くわします。あの子が得意なのは運動なのに「体育が得意」と言われたり、あの人が嫌いなのは体育なのに「私はスポーツが嫌い」と発されたり、といったコミュニケーション上の齟齬が生まれやすい環境が今の日本にはあります。

昨今、国民の健康増進の文脈もありますし、、オリンピックパラリンピックを盛り上げたい文脈もあって、その齟齬を埋めるべく「スポーツと体育の違い」を語ることが増えているようです。2019年のNHK大河『いだてん』でも幾度となく語られていたのは、ご覧になった方の記憶に新しいことでしょう。そしてその流れから、日本の体育教育批判の論調がちらほら出てきたように思います。

「体育」にいい思い出のない日本人はそこそこの数います。

たまたま、他の子供よりも体を動かすことが苦手だったとか、肉体的強さを盾に支配的に接してくる人が苦手だったとか、想像力がたくましくてその先の怪我に不安を覚えて体を動かせないとか、理由は様々でしょう。でも小学校低学年のたったわずかなタイミングで「うまくこなせなかった」たったそれだけのことで、いわゆるスクールカーストの底辺に追いやられたり、クラスの輪から外れてしまう人がいます。人間としての良さは他にあるのに、そこは見過ごされて「体育の評価視点でみると下位に位置づけられた」だけで、全人格的に駄目だと決めつけられてしまうようなこと。釈然としない……ぐらいならまだよく、もっと過度にストレスや不満を抱えたまま学校生活と向き合ってきた人は少なくありません。

そしてその環境・空気感を牽引するのは、運動が良くできて誰とでもコミュニケーションが取れ、明るく元気な体育会系の何かに属しているタイプ。その空気感を強化・増長するのもまた体育会系出身の大人であることが多いのです。更にその空気感は、日本全体に思いの外蔓延しています。そこから生まれた「体育会系嫌い」が積もり積もって「スポーツ憎し」「スポーツ界隈憎し」に転化している人は、それなりの数、います。

嫌いなのは体育、そして体育会系の視野狭き人々、そしてそういう人達によって作られる体育会系文化とその文化が保有する判断基準で、それと「スポーツ」は完全一致するものではありません。でも、そういう人たちが得意にしているものが「スポーツ競技」だから、一体化してスポーツが憎悪の対象になってしまい、本来わかり会えるような視点や思考を持ったアスリートやスポーツ業界の人と断絶してしまう。日本に五輪やワールドカップを呼ぶのは無駄、テレビでスポーツの放送に大きく時間を割くのは無駄、そういう声は少なくない状況が、今の日本には根深くあると感じています。

私自身、さほど肉体的に恵まれたタイプではない上に、基本性質としては引っ込み思案な子供でした。小さい頃の扱いで「スポーツ界隈憎し」になってもおかしくないのですが、何故か無類のスポーツ観戦好きです。去年のラグビーワールドカップも楽しかったですし、現在様々な工夫の上に成立させている最近のスポーツ興行・大会も心待ちにし、そして楽しんでいますし、オリンピックパラリンピックもどうなるか心配ではありますが楽しみにしています。日本に、東京に来てくれて嬉しいと喜んでおり、良い大会になればいいなと願ってやまないのです。

一体、思考を分けたのはなんだったのだろうか、なぜ私はスポーツを好きであり続けているのか、……と考えているうちに、浅はかな私の認識で「肉体的条件だけを見れば、同じように体育会系嫌い方向に向かってもおかしくない障害者からパラアスリートが生まれるのは何が違うからなのか」を聞いてみたい、と思いついたのです。そこには何か、スポーツをめぐる心理的環境を変革するヒントがあるのではないかと発想したからです。

そんな時、パラリンピックに6大会出場し金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得、日本人で唯一のIPC殿堂入りを果たしている、日本パラ水泳協会会長(当時)の河合純一さんという、とんでもない方とお話ができるチャンスが舞い込み「疑問、ぶつけてみようか……?」となり、この対談が成立することとなったのでした。
2019年というタイミング、伝説のアスリート、パラリンピアンに、1年後に迫るパラリンピックとパラスポーツのことを聞かずにどうする、という思いもあったのは確かなのですが、まあそういうインタビューは他のメディアでたくさん出るだろう、という気もしたからです。

結果、スポーツと教育と社会環境について、多くを学ばせていただく、素晴らしい時間となりました。

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なぜ対談記事を残したいと思ったのか

対談記事は、障害者だとか障害者でないとかを超えた、日本の社会問題の一部に問題提起をし、そして視点を示すという以上に大切な話が詰まっているものとなりました。

パラアスリートの知見がアスリート全体の知見になるかもしれないアナリティクスの視点とか、海外では小学生中学生の段階ではトーナメント戦で1位を決める大会なんて無いんだとか、子供とスポーツの関係をどう育てるかとか、人口比率で考えると「もっと日常的に障害者は混ざって生活しているはずなのに、何故そこまで目にしないんだろう」という社会環境の歪みに疑問を持つ視野が得られたり。

記事公開のタイミングだけ有効で使える話ではなく、日本人が長期間付き合っていかなくてはならない問題、視点が含まれているこの内容は、長く残したい、と強く思ったのでした。

そして河合さん自身の「女性や障害者の社会進出の文脈で、多様性を礼賛、推進する風潮が最近強いけれども、多様性はイノベーションにはいいが効率化の時は邪魔になるという認識が無いと」ということばには、視界が開けたような気持ちになりました。とても印象的だったので、そのままタイトルに使われています。

記事本編へ……

多様性はイノベーションをドライブするが、効率のブレーキになる(1)
多様性はイノベーションをドライブするが、効率のブレーキになる(2)
多様性はイノベーションをドライブするが、効率のブレーキになる(3)
多様性はイノベーションをドライブするが、効率のブレーキになる(4)

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