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02|内側のこだまが、にじみでるとき

この連載の第1回目で詩歩さんが、自身も揺れながら、それでも、人や場所のあらゆる揺れについて書いていくことの難しさと現実について考えて書いてくれた。本当に玉稿だと思う。ぜひ読んでください。感想もお寄せください。

あと、こだまのかけあいっこを立ち上げる前に書いていた個人的なnoteも関連するのでよかったらぜひ

この揺れやこだまにどうやってかけあいっこしようか。なんだか、小さな聞くことと書くことの運動のひとつなのに、詩歩さんとともに立ち上げたメンバーのひとりなのに/だからこそ、どっこい大きな役目を背負ってしまった気がする。

改めて、すごく親しい他者の文章が自分の経験や感覚のどこかと重なったりすれ違ったりするのか、考えていた。

実は、こうして書いている私土田は、フィールドワークでスリランカ・ラトゥナプラに来ている。スリランカをフィールドに災害研究や人類学を選んだのは本当に偶然で、人のつながりだ(それこそ別稿で述べたい)。ここでは大学院からずっとほぼ毎年大なり小なり起こる洪水災害と復興、日常、生業についてコロナ禍も挟みつつ調査を行ってきた。

今回で確か8回目、1年9ヶ月ぶりだ。長い関わりのように思えるけど、実際は短い滞在期間を繰り返してきた。その関わりのなかで、実に6年ぶりに会う人も(!)たまたま会った人とそのまま研究の調査協力者になることも、説明しようのない偶然や喜びがある。

いくつもの声を聞き、生活の息づかいに触り、変わる表情や景色、新たな日常に常に驚き、復興と日常とはなんなのか、互いに前景化するその当たり前の違いはなんなのか、ということを自分のなかで巻き起こる不思議をそこにいる人びとともに巻き込み醸成しつつ、探究してきた。

今回は私にとってのちっぽけなこだまについて私的ながら綴ってみたい。


つづく日常が、静かにひっくりかえるとき

宮崎県宮崎市にある私の実家は、太平洋(宮崎では日向灘と呼ぶ)の沿岸からおよそ8km離れ、海抜60mの位置に所在する小さな町にある。昭和の終わりに人口増加と繁栄をねらって都市開発のため山を切り開いて作られた台地、新興住宅地である。

宮崎は毎年だいたい7月から10月にかけて台風がよく上陸する。幼少の頃はその都度、天気予報を見て、連絡網が回って全日休校の情報がくればハッピーだし、そうでなければしぶしぶ学校に行くこともあった。とはいっても準備は大変だ。防風扉を全部出すにも一苦労、風が強まる昨夜はガタガタと震える音が怖かった。

翌朝の連絡網で回る電話の声を受信機越しに耳を側立てて聞く。そうして聞こえる声が午前休講はベターにせよ、通常開講はちょっとうんざりもしたから、ずいぶん早い朝方の防風扉の向こうの世界に怖い気持ちを持ちつつ、もうちょっと休みであってほしいなどと思い馳せていた。

しかし、その意識はある契機に、静かに変わる。平成17(2005)年9月6日に上陸した台風14号(9月4日-6日までの総雨量600mmオーバー)であった。

細かい情報は朧げではあるが、家族や親族、友達はほぼ皆無事で、家や学校に大きな破損はなかった。それはそれで助かった。

しかし、地区全体が断水になってしまった、と気づいたのは全体への連絡がまわったあとだったと思う。理由はこの地区は台地であり、水は台地の下の浄水場から汲み上げてきたこのインフラに由来する。この台風により川の支流傍にあった浄水場の一部が冠水してしまったため、水関連のインフラが止まってしまった。この静かな停止と情報の収集は徐々にこの街を混乱させた。

結果として、このインフラの修復におよそ1ヶ月強かかった。その間、はじめの時期は当然のように地区の飲料水や飲み物は一瞬にしてなくなり、風呂も料理、トイレもままならない生活が長く続いた。のちに地区の公園に自衛隊と水タンクカーが来て、週に何度かポリタンクや空いたペットボトルを持って給水に行き、わずかな水で水補給や料理、風呂、トイレに充てた。おまけに夏休み明け、運動会前の期間であった。私を含め、子どもらはその給水に行ってはこの生活にストレスがたまっていたことを友達や家族の顔を見て察した。とてもではないけれども、高学年の子どもでも「こんな生活はいやだ」と大声を出して言える空気ではなかった。

2024年3月に気仙沼にフィールドワークに行った際に撮った写真撮った写真。これがここの新しい日常で風景で、かつての風景の気配が見えないところまである。

「あれは何だったんだろうね」

実は正直、そこからの経験は具体的に私は覚えていない。おぼろげであった。こう書いている今でもちょっと恥ずかしい。

ただ、いくつか断片的に覚えていることのひとつは、それでもみなが助かろうと、地域のなかで助け合う意義をかすかながらに何らかのささやかな行為や視線、姿から読み取っていたことだ。でも、それに気づいたのはなぜか、私個人のなかでは確証はない。ただ、給水場のお知らせをサイレンで聞いて、公園に行ってはお互いの体調や気苦労を計っていた時に思ったし、その度にその人の存在を確かめ合ったと当時の私はその意義をやんわりと感じていた。取るに足らない記憶と感覚だ。でも、確かにそこに私たちがあった、としかいえないような、「こんなことがあってもいいのだろうか」と、当時、別様に可能性が開かれたモメントだったように思う。

また、もうひとつに、インフラは修復・整備したものの、その後の地域の具体的な存在への気配り、それは例えば、シングル世帯、高齢者独居・入居者、共働き世帯に対して、地域の自治会で弁当を配り、子どもが一緒にその世帯や施設を訪問し元気かどうか、何か問題はないかを窺っていたことがしばらく続いていたくらいだったと思う。このことや他の動きについては当時はかなり画期的であった、と当時自治会やPTAで熱心に活動していた私の母からそのことを帰省のたびにこの話題に触れて聞いた。

「あれは何だったんだろうね」と私はあるとき、母と車で地元をめぐりながら話した。すると、「何だったんだろうね。でも、私がよく髪切りに行く美容室でうちの地元のことを話すと、すごく驚かれるんだよね。『あのときの台風の後のあなたの地域はなんかすごかった、奇跡みたいな』って」と母は少し驚きを見せつつ話していた。

その空っぽな驚きと実感のあっけなさは、私にはすごくよくわかった。渦中では書くことも話すことも残すことも余力はそれほどない。けれども、今日の災害後で立ち上がる何らかの言葉に容易に収斂できないような、可能性と網目がそこにあったからであって、何ら特別なことでもなかった、と振り返る。特別なことだったら今頃何らかの形で残っているはずだろうけど、それすらあまり残っていない。もはやあるのは当時を生き抜いた人とモノによる記録と語りでしかない。ただし、多くはそれらは自らから語らない。

母とあの日の災害について語った後の道、大淀川と天満橋

内側のこだまが、にじみでるとき

だから、詩歩さんから、今回の能登半島震災を踏まえて、震災を一つの便りの目印として、誰でも書いて、聞いて、考える場を作りませんか、とお話をもらったとき、ちょうど私も似たような問題を、地元から考えてみたいと思っていて、快くこの運動に同意して、ともに手探りながら立ち上げてみた。

ただし、私の場合、もともとは震災ではなかった。けれども、災害を契機に自分の実存に触れたとき、熊本地震や能登半島震災の災害ボランティアに赴いたこともあり、「そういえば、あのときのあれって何だったんだろうな」と思い起こすことはちょこちょこある。

夏の暑い時期に阿蘇内を研究室メンバーで車を走らせ、ふと訪れた神社に入り、ひしゃげた小さな境内と止まった手水舎に言葉がでなかったこと。

冬の寒い時期にお手伝いに行った地域の人たちと同じく風呂に入れず、久しぶりに温泉に入ったときにシャンプーの泡立たなさに「地域の人たちの言ってたことだ!」と何故かひとりでに感動を覚えたこと。

たぶん、どれもなんでもない。だけど、なにかのたびに引き起こされて自分の内側でこだまする。たぶん、取るに足らないと自分でさえ思えてしまうから、蓋をしたくなる。

けれども、それはこうした形で、読み手を信じて言葉にしたときに、内側のこだまがにじみでてしまうようなこともある。先の「あれは何だったんだろうね」がそのひとつだったと私は思った。

いつだって、「そんなもんだよ」と考えたり感じていたりしたことを笑い飛ばされ、気にしていたことがどこかに吹き飛ばされてしまう覚悟を私は持っている。

でも、こんなにもちっぽけなこだまがどこかで「その話で君が言いたいことがわかるかわからないかはこれからの互いの時間にかけるにせよ、確かにそれは何だったんだろうね」と内なる声に耳を澄ませてくれる人を探すような、祈りと希望に近い、投げ打つ時間のなかで生きているようにも私には思える。

そういう、にじみでる時間を信じてみたいと思う。
言葉、時間、身体、情動に対する機微をこの場に集うみなさんとともに。

にじみでる時間、それは木漏れ日のなかで静かに日陰や日向にあたる時間と場所を探すことに近いのだと思う。木漏れ日に目を向けると、いつもここが日に当たるということはない。いつも自然も風景も日の出方も変わるからだ。お互いが動き合い、動かずとも、自然とその場所に日が当たる、当たらないで穏やかでいること、それがにじみでる時間なのだと。


(うーんと唸りながら書き上げた日にちょうど30歳の誕生日になりました)

土田亮
災害研究・人類学が専門。日常と復興とケアのあいだにある、目を向けてこなかった現実に再び目を向けること、その意義に関心を寄せています。

こだまのかけあいっこについて
わたしたちがこの企画を立ち上げたのは、何か中心で大きな動きや声ばかりに耳目が集まり、その周辺に取り残されたり、手伝ったり、かき消されかけたり、疲れてしまったりしたことにあります。そして、小さな声とその声の主にただ向き合うこと、聞くこと、書くことの重要性を改めて共有しました。

この、「こだまのかけあいっこ」は、さまざまな役割、立場、向き合い方などから「震災」というキーワードをたよりに集まった人たちが、それぞれの小さな声を書き残し、つないでいく連載企画です。
みなさんがこの小さな声、こだま、人に応答し、そこにひたむきにかけあえる場になり、集まる人たちが安心して自らの存在や生をひらくことができたのなら、この上ない喜びです。


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