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01|揺れと共に生きる

"Living with Shaking" (揺れと共に生きる)と題して、修士論文のチャプターを書き進めている。地震の揺れは、人々の感情的な揺れを巻き起こす。そして、それを研究する「わたし」自身も深く動揺する。

"「深く動揺する魂」の傍らにとどまり、急ぎ足で通り過ぎないことを実践するとは、どういうことなのだろう。それは果たして実踐可能なことなのだろうか。 もし可能であるならば、そのために学問は、あるいはより広義に、こうして「書く」ことは、何ができるのだろうか。"

中村(2024)

研究者というのは、決して、客観的で中立でドライな人物だけを指すのではない。人間である以上、対象となるフィールドから影響を受けることは、人類学者マリノフスキー(1989)の残した『マリノフスキー日記』からも読み取ることができる。

フィールドに立ち、傍に佇んで、話を聞き、それを書くこの営みを通じて、「わたし」が揺れる。そんな過程を描き出してみたいと思う。

道中立ち寄った千里浜にて(2024.3.22 筆者撮影)

能登から珠洲へ、珠洲から高屋へ。

震災から半年が経った六月末、フィールドワーク兼炊き出しのために、能登半島は奥能登にあたる珠洲・高屋地区を訪問。高屋に住む友人とその集落の方々を訪ねた。

前回の訪問では、能登、もしくは珠洲を訪れるという感覚だった。しかし、回を重ねるごとに、土地に対する視点がよりリアルになり、高屋地区を訪れるという感覚に移行していった。

一月の震災発生時には、能登がどこにあるのかはもちろん、珠洲(すず)という地名の読み方さえ分からないほどだった。

前回の訪問は「これからの珠洲の話をしよう」と題されたイベントのお手伝い(2024.3.23 筆者撮影)
30人分の炊き出しは、お米を炊くのも一苦労(2024.6.22 筆者撮影)
地元の人と一緒にご飯を作る(2024.6.22.筆者撮影)

尊厳あるケアと災害復興

災害とケア、もしくは尊厳というテーマの研究は、未だ多くはない。今では、広く知られている震災によってもたらされるトラウマの概念ですら、阪神淡路大震災をきっかけに、知られるようになったほどだ(宮地, 2013)。

いかに早く復興するかという視点も大切だが、おそらく、遅い復興にもケアの観点から考えると、大いに利点はある。例えば、倒壊した家から、何を残し、何を捨てるかの判断には時間がかかる。早く片付けることを急かすことは、絶対的に正しいのだろうかという問いがここに立つ。

また、他にも、被災地でケアする者の経験については、メディアの報道では語られづらい。それは、インパクトのある話ではないし、日常の延長にあるような、話を聞くこと、挨拶をすること、共に食卓を囲むこと。そうした、静かな営みであるからだ。

一方、尊厳なきケアの問題点についても、多くは議論がなされていない。

例えば、物資の支援を例にあげると分かりやすいだろう。たくさんの善意が詰め込まれた物資。受け取る側は、「せっかくもらったのだから」という気持ちから、不要だったものについて共有する場がない。そして、何かを受け取り続けるということの精神的な負債感(内尾, 2018)についても、あまり知られていない側面かもしれない。

怒り、揺さぶられ、連帯する「わたし」

上記であげたような、被災地もしくは被災者に対する尊厳に関連する問題を文献レビュー及び、聞き取りから知ったわたしは、怒りを感じずにはいられなかった。こんな問題を何度も震災を経験している日本で、ほったらかしにされていること、そして、それを知らなかった自分に対して、いてもたってもいられなくなった。

そこで、問題視されるのは、研究者は冷静で中立であるべきだという実証主義的な立場からの攻撃である。

研究者自身が研究過程や結果にどのように影響を与えるかを認識し、その影響を考慮に入れることを前提とした研究(Ateljevic et al. ,2005)も存在するのだが、常に「感情」は批判の対象にされている。

はたと、ここで、自分自身を振り返ると、カメラロールに残った写真には、ほとんど「被災地らしさ」を醸し出す写真は残っていなかった。そして、わたしは、街なかを歩くとき、持っているカメラを懐に隠したくなった。それは、わたしとフィールドの心理的距離が近付いた証だとも取ることができる。

わたしにとって、そこは「被災地」から、友人知人が住む場所に移ろいつつあった

▼初回の訪問で撮影した写真

▼二度目の訪問で撮影した写真

そして、彼女たちの日常を目にしながら、常に、日常と被災地という感覚が複雑に揺れ動く。完全なる被災地でもなければ、完全なる日常でもない。そして、わたしができたことは、ただ、傍に佇み、話を聞くことのみだった。

ここから、被災地を取り巻く感情を描き出していくことを通して、何ができるのだろうか。そして、それを書くわたしは、どのように揺さぶられ、変容してしまうのだろうか。

参考文献
Ateljevic, I., Harris, C., Wilson, E., & Collins, F. L. (2005). Getting ‘Entangled’: Reflexivity and the ‘Critical Turn’ in Tourism Studies. Tourism Recreation Research, 30(2), 9–21. https://doi.org/10.1080/02508281.2005.11081469
中村沙絵 (2024). 「コーラ・ダイアモンドの言葉が響くとき」.『國學院雑誌』,125(2),18-32.
Malinowski, B. (1989). A Diary in the Strict Sense of the Term (Vol. 235). Stanford University Press.
宮地尚子. (2013). トラウマ. 岩波書店.
内尾太一. (2018). 復興と尊厳. 東京大学出版会.

こだまのかけあいっこについて
わたしたちがこの企画を立ち上げたのは、何か中心で大きな動きや声ばかりに耳目が集まり、その周辺に取り残されたり、手伝ったり、かき消されかけたり、疲れてしまったりしたことにあります。そして、小さな声とその声の主にただ向き合うこと、聞くこと、書くことの重要性を改めて共有しました。

この、「こだまのかけあいっこ」は、さまざまな役割、立場、向き合い方などから「震災」というキーワードをたよりに集まった人たちが、それぞれの小さな声を書き残し、つないでいく連載企画です。
みなさんがこの小さな声、こだま、人に応答し、そこにひたむきにかけあえる場になり、集まる人たちが安心して自らの存在や生をひらくことができたのなら、この上ない喜びです。


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