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貧困ぬけ〜貧困層を抜けた人の話〜vol,1「生まれ」

1972年3月24日広島県福島市で私は生まれました。
福島には何歳までいたかはわかりません。
記憶もほぼありません。広島市にもいたそうです。
覚えていることと言えば、同じアパートに住む子に階段で押されて転んだ時に出来た傷が顎の下にあることと微かに同じアパートの子のことを覚えているくらいで、どんな部屋だったか、写真すら残っていないので何もわかりません。
あ、そうそう、当時のことについて母から唯一聞いた話は、階段から近所の子に押されて落ちた時にできた傷が裂けて傷口がぷっくりと開いて中のピンク色の肉が見えていて2針塗ったということくらいです。

私は幸せなことは殆ど記憶にありません。記憶に残るのは不幸なことばかりです。
特に家族のことになると幸せな話はありません。
私が思うのは、意外と皆そうなのかもしれないと最近思います。
つまり、人生は意外と辛いことばかり。
もしかすると皆もそうなのかもしれない。そんな風に考えることがあります。
でも、実際は、幸せなことが多い家庭もあるのだなと思います。
不幸しかない家庭は、私のような貧しい家庭のことです。
でも、不幸なことばかりの貧しい家庭もちょっとしたことで幸せがある家庭に変われる気がします。
ほんのちょっとしたことですが、それが微かではっきりとわかりません。
それを手繰り寄せる為にこの話を書き始めました。
あ、でも1つ間違いなく言えることは貧困は抜ける必要があります。

それともう1つ、今の日本には貧困ぬけのエピーソードが必要です。
貧困を抜ける為の具体的な方策を立てる為には、貧困を知る人間の知見が必要です。知見は有識者が読んで貧困を理解する為。そして、貧困層の人自身が抜ける手立てを知る為。貧困層の人が事情を詳細に外に向けて発信できるようにする為に参考になる文章を起こす為です。

余談ですが、今日、映画のジョーカーを借りて見ました。
ジョーカーの最後の方のシーンにジョーカーが福祉で受けられる心療内科?のカウンセラーに、話てもあなたには「わからない」というシーンがあります。
その感覚は私にはもの凄くわかります。
そこにある「気分」があります。それから解放する、させなければならない。
これがわかる人とわからない人に世の中は綺麗に分かれます。
これをどうにかしなければ‥。
その為のまず、所得です。それか政治を変えること。

私が福島で生まれる前、私の両親は北九州の小倉北区宇佐町にいました。
ここは、わかりやすく言えば成人式の派手な衣装で有名な北九州です。
私の実家のあった小倉は北九州の中でも最も悪い地域です。その中は北区と南区と別れ、悪い方の北区のその中でも最も悪い宇佐町に家がありました。
どの程度悪いかというと、私が小倉南区の高校に通っていた時に地理の授業で先生が、そこに住んでいる生徒がいるとは思わずに、小倉北区の宇佐町は本当に悪い、絶対に立ち入らない方がいい。と今では問題発言ですが、先日宇佐町に行ってえらい目にあったという話をしながら言われました。先生の言われる通り、確かに当時の宇佐町は視界の中は反社会勢力の方がかなりの確率で写り込んでしまう。私が教育実習に行った20年前は先生に今の小倉は昔よりも怖い、なぜなら昔は服装で反社会的勢力の人は見分けがついたが今は普通の格好をしているので全く見分けがつかないと言われました。確かにそのような感じに変わっていました。でも、まあ成人式はあんな感じです。あ、彼らはああ見えて真面目で勤労な青年です。彼らはまだ「自由にのびのび」表現することができる。
私が高校生の時は、私が家から高校に辿り着くには、反社会勢力の人の事務所の前を3箇所通らなければなりません、そして、私の家の前のお店では殺傷事件が2回。家の右側の窓を開けると反社会勢力の事務所の入り口が見える。そのような場所でした。
子供の頃は怖かったですが、大人になるに連れてそのような人や物事が平気になりました。自慢できるようなことではないですが、父の話では私の親戚には傷だらけの人もいましたが、若い頃に刺された傷らしいです。
中々普通のおうちで刺されたことのある親戚はいませんよね‥。
まあ、私の顎の下にも名誉の勲章があります。これ以上傷はいりませんが‥

こんなことを書くと怒られそうですが、でも、低所得の問題を解決する為には書かなければならないと感じるのです。後で詳しくお話ししますが、黙って「大人の振る舞い」をすることで我々の生活は豊かにならないのだと思います。逆に保守層の、つまり変わらなくても構わない、変わるとまずい人たちは「大人の振る舞い」を大事に守り続けることで幸せを担保され続けます。
残念ながら「大人の振る舞い」を大事にする時と、それではダメな時があります。
なんの因果か私はアーティストです。なのでこの構図を壊します。
つまり、言いたいことがあっても、言わなければならないことがあっても我慢する。言う方法がわからない。我慢する方法しか教わっていないからこのような状況が生まれるのだと私は考えます。どれだけ給料が安くても黙って我慢して寡黙に働くことを美学にする文化が日本にはあります。でもこれは一部の高所得の保守層が考え出した論理だと思います。これを壊せばいいのです。
貧困層の中にある抑うつの原因は、言いたくでも我慢し続けていることにあります。それは悲しいかな、貧困層の家庭と学校で教育していることです。

「自由にのびのび」発表をしなければならない時が人生にはあるのだと思います。
私はおそらく、ジョーカーと年が近いです。50歳くらいになってくると、残りの人生が見えてきます。その残りを丁寧に保守的に守り続けることがいいのかと言われれば、黙って守っていても何も良くならないことが手に取るようにわかります。
どちらかと言えば声を上げた方が良い。
若い人たちが声を上げるとダメかと言えばそうではありません。
でも、50とはそのような年なのではないか?と思います。


私の父は母と結婚する為に宇佐町の家を出ました。祖父には断りを入れて、同意の上の家出です。原因は祖父の再婚相手が当時の息子2人の結婚の邪魔をするから‥家を出なければ結婚することは不可能ということでした。
どれだけ?って感じですよね‥。

再婚相手は私にとって祖母ということなのでしょうが、私が父に連れられて実家に戻った時にはその祖母はいなかったので面識はないですし、何もわかりません。

知っていることは、その祖母が遺産を取られることを嫌い、息子2人の結婚や孫ができることの邪魔をしたということです。

邪魔というのは、父の弟の奥さんに子供が出来た時に、金槌で頭を殴り、流産させたということ。私が具体的に聞いているのは金槌の一件で、他にも度々暴行していたということ。徹底的にやられて伯母さんは子供の産めない体になりました。外では万引きを繰り返し、何度も警察に引き取りにいったということです。
そんな女とどうして結婚した?と思われる人も多いと思います。
私も知りませんが、その祖母の容姿は特に綺麗でもなんでもない小太りの方だったそうなので、情けない話モテない祖父が性欲に負けて騙されたのだと思います。

父は私の母と一緒になる前に、結婚しようとした人がいたそうですが、その祖母に邪魔をされて破断になったそうです。

私の父と母がどこでどのように知り合って結婚までに至ったのかは知りません。母方の叔父に高校3年生の時に父が失踪して居候していた時に聞いた話ですが、気づいた時にはすでに一緒に住んでいたようです。
私がどのタイミングで生まれたのかもわかりません。
私がどのような場所で、どのように育ったのか、物心つく前の幼少期頃のことは何もわからないのです。

私が物心ついたのは小学校2年生の頃です。
その時点で両親はすでに、顔を合わす度に殺し合い一歩手前の罵り合いが始まります。つまり、兎に角現状が嫌だとことしか告げられず、私の生まれ育ちのことなど聞けることは一度もありませんでした。
因みに、母とは35年合っても話てもいません。あれ以来、母は誰とも結婚できず仕事もできないのだと思います。関わると私の生活が破綻するので接触はしていません。
親不孝と言われる方も多いかと思いますが、父親も数年前まで私の立てた家に呼んで一緒に暮らしていましたが、あまりに人の話を聞かず、家庭の空気を読まず、呆けてばかりなので、家を出てもらいました。幼い頃は母がなぜ父の顔を見る度に罵っていたのか、この年になって一緒に住んでみて良くわかりました。まず、人の話を一切聞けないのです。かなり強く言わなければ全く聞く耳を持ちません。父は仕事をしても時給千円程度しか稼げない人でしたし、宇佐町に住んでからは家に一切お金を入れなかったそうです。そんな訳ですから、罵り合いになるのは当然と言えば当然です。

vol.2に続きます。
この話は貧困ぬけまで続きます。

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