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普通という言葉は死語なのかもしれない

日本教育の大鉄則「右に倣え」。これにより出来上がる「普通は○○」という刷り込み。これはとても厄介な刷り込みです。「出る杭は打つ」体質も「右に倣え」という前提があるからであって、百害あって一利なしの考えです。そもそも顔も身長も性格も異なるのに、そこに誰かが決めた「普通」という基準を当てはめられても、迷惑でしかありません。確かに人が集団で生活するには一定の基準やルールは必要です。でもそれは集団の基準、ルールであって、個性を制限すべきものでないのです。

頭での理解と実体は異なる

小学校に入ると始まる集団生活。「○○ちゃんはこうだから」「みんな○○するのが普通」という刷り込みが同時に始まります。なぜか良いことでも悪いことでも普通というボーダーラインを超えると目立ってしまう体質はとてもおかしなことだなと思っています。頭が良すぎても妬まれ、運動できなくても馬鹿にされ、成長が早くてもからかわれる。特に低学年の時は4月1日生まれの子と3月31日生まれの子で1歳違うわけですから、色々な面で差が出るのも致し方ないですし、個人によって成長のスピードも、何が好きかによって成績が変わるのも当然です。と、頭では分かっていても「平均」という基準があることによって、優劣をつけられてしまうのが現状で、すべての項目において平均前後の人が安定したポジションにつけるという謎の体質が生まれていきます。

もはや言葉の定義が分からない①

「常識」も然り。平均的な考えをもとに決められた基準で常識が構成されます。それもアップデートの頻度が極端に低い。「それいつの基準ですか?」とツッコみたくなるくらい昔の基準を当てはめていたりします。しかもそれを何も疑わずに「昔からなんで」という意味の分からない根拠を提示されたりもするわけで。ところで、常識ってどんな定義があるのでしょうか。

社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと 参照:Wikipedia

との事です。そもそも社会とは何かって話になりますが、多様化やグローバル社会においてもはや何が当たり前なのかが分からない状態です。それに常に社会は変わってゆくものです。ということは常に常識も変わるべきですよね。

もはや言葉の定義が分からない②

翻って「普通」とはどういう意味なのでしょうか。

広く通用する状態のこと。普通の『普』は、「あまねく」「広く」を意味する字である。参照:Wikipedia

鵜呑みで解釈すると「普通」ならば世界に通用するようです。でもありえませんね。前述の通り、世界各国において「当たり前」が異なるからです。昔と今では「世間的な広さ」の尺度がまるで違うことに関係がありそうです。文明というと大げさですが、交通機関の発達やインターネットによって世界の尺度は大きく変わりました。極端に昔の話をすると、江戸から京都まで飛脚で3~4日掛かったそうです。つまり江戸時代に江戸にいる人が京都にいる人何かを伝えたいと思ったら最短3日は掛かったということ。この距離感なら「広さ」の定義は現在と異なるのは当然です。「江戸」という限られた広さで通用する状態のことを「普通」とするならば、普通の意味も分かる気がしますが、どう考えても時代と共に世界の距離は縮まっている訳で、広さの限界がなくなりました。とはいえ、近所や学区、地域などの枠はあるため、正しくは「普通」がないわけではないけれど、縮尺がとっても小さくなった現在では地図に「普通」をプロットしていても見えなくなったという表現になります。

気にするのもしないのもあなたの縮尺次第

というわけでどの縮尺で過ごすかによって「普通」という刷り込みに囚われるかが決まります。縮尺が1/10程度の大きい人は気になるでしょうし、1/10,000くらいの方は気になるという感覚すらもないはずです。でもそれは大人の話。世界の範囲が小さいの子供は別です。インターネットはあるけれど、やはり学校生活が基盤の子供たちは「普通」に触れる機会が多く、優劣も感じやすいことに違いありません。いくらあなたの尺度が小さくても子供には分からない地図を見ていることになります。いきなり「教育自体」を変えることはできないけれど、今より確実に多種多様な縮尺の中で生きていくことになるわけですから、縮尺の変え方を伝えていきたいものです。

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