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蟹と応挙のまち・兵庫県香美町:7

承前

 大乗寺客殿の2階は、オプションでの公開だった。
 2階へたどり着くには、人ひとりがやっと通れる、狭く急な階段をよじ登ることになる。そして、2つの部屋はどちらも広くない。
 そのため一度の受け入れ人数を絞らざるをえず、このような形になっているのだろう。

 2階の障壁画を担当した源琦(げんき)と長沢芦雪はいずれも応挙の高弟だが、双方の個性は大きく隔たっている。

◆「鴨の間」 源琦
 師・応挙の風に最も忠実といわれるのが源琦。本作からもその点が充分にうなずけるが、同時に硬さや模倣の跡を感じさせないのは、それだけ確かな技術を身につけていたからであろう。1階のお弟子さんたちの作よりも、数段上のレベルに達している。

◆「猿の間」 長沢芦雪
 同じ高弟でも、温厚な優等生の源琦とは対極の位置にあるのが、天才肌の問題児・芦雪。応挙から3度も破門されたとの説もあるこの男、大乗寺でも大暴れしている。
 猿の奔放なポーズや表情を、豪放磊落にして端的な筆致で描く。狭くて暗い2階の小部屋でこんな芦雪の猿をながめていると、五行山に幽閉された暴れん坊の孫悟空が思い浮かんで、頭から消えない。
 源琦は芦雪の監視役というか、アクの強さを中和する役どころだろうか。
 魅力的な2室の対比である。

     *

 これら大乗寺客殿の襖絵は、すべてが一度に完成されたわけではない。
 1階の応挙「山水の間」襖には天明7年(1787)12月の年記があり、この時点で1階の弟子による作の多くが納品されている。
 応挙の担当分は遅れて「芭蕉の間」が、さらにずっと遅れて「孔雀の間」が仕上げられている。後者には寛政7年(1795)4月の落款があり、1階の呉春「農業の間」、そして2階の源琦・芦雪もこの頃に納められたようだ。
 最初の納品から7年強。この間に、呉春は蕪村門下から応挙門下へと転じている。その前後の「禿山の間」「農業の間」の画風の違いが、年月の経過を物語る。
 遅延の理由とされているのは、「山水の間」納品後、京で起こった天明の大火によって応挙のアトリエが焼け落ち、「芭蕉の間」や「孔雀の間」を飾るはずだった絵も灰燼に帰したらしいこと。
 さらに、大火によって禁裏・市中での制作依頼が相次ぎ、一門は多忙を極めた。「孔雀の間」落款の3か月後に応挙は没しているから、体調面でも困難があったのかもしれない。応挙一門はもともと、納期を破りがちだったという話も……

 ——応挙たちを襲う艱難辛苦、クライアントの辛抱を経て、プロジェクトは完遂された。
 それ以降、こんにちにいたるまで、客殿とその障壁画はほとんど当時のまま守り通されてきたわけだ。
 複製画ではなく、本物の襖絵が客殿に一時的に戻るのはちょうど本日、3月15日までのことである。(つづく

かに……じゃなくて香美町の香住(かすみ)駅(まぎらわしい)ホームには、蟹の足のオブジェが


 ※応挙の高弟・島田元直の花鳥図がもとはあった可能性も指摘されているが、詳しいことはわかっていない。


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