見出し画像

センチュリーミュージアムとわたし:3

承前

 センチュリー文化財団の収蔵品は慶応義塾に寄贈、新開館の「慶應義塾ミュージアム・コモンズ」の収蔵品の核として迎えられた。
 慶応大には「斯道(しどう)文庫」という、古典籍・書誌学の一大研究拠点がある。適切な維持管理、公開、研究のためには、最善の選択なのだろう。あれほど閑散としていてはこの先、立ち行かない……より多くの人に観て、活用してもらったほうが、資料としても幸せか。

 慶應義塾ミュージアム・コモンズは、昨年4月にオープン。開館記念展を観に行ってきた。
 安住の地を得たセンチュリーミュージアム旧蔵品は、 斯道文庫の収蔵資料と合流することで、新たな輝きを放っているように見えた。これからまたさまざまな展開がみられるのだと思うと、楽しみである。

 それにしても、早稲田から慶応へ、するりと逃げていったことになる。慶応への寄託や共同研究は、早稲田への移転に前後してすでにはじまっていたようだが、そのあたりの動きに気がついていなかったので、「するり」というのが正直な感触である。
 大学博物館には早稲田が先んじて取り組み、大きく水を開けている状態だった。
 かたや慶応には、このたび加わった斯道文庫以外にも、考古遺物からイサム・ノグチ、現代美術まで多岐にわたる収蔵品がある。
 そこに、こうして「センチュリー赤尾コレクション」という新しい軸が生まれたのである。慶応の今後のミュージアム攻勢を、期待をもって注視していきたい。

 なお、当初の移転先として構想されていた鎌倉の物件は赤尾家の邸宅として建設されたお屋敷で、センチュリータワーと同じくアメリカの建築家ノーマン・フォスターの設計。竣工後も施主が住むことはなく、またセンチュリーミュージアムが入ることも見送られて、鎌倉市にまるごと寄贈された。
 鎌倉市はここを「鎌倉歴史文化交流館」という、考古資料などを展示する空間とした。邸宅としてつくられたハコモノのためユニークな内装だが、武家の都・鎌倉の出土品を常設展示する施設はこれまでになかったので、なにはともあれよかった。

 早稲田の小料理屋「松下」は惜しくも店を畳んでしまったけれど、ここで修行をした料理人が独立し、これまた鎌倉で「おおはま」という店を開いているそうだ。
 居酒屋探訪の番組でとりあげられているのをたまたま視聴、「松下」の名が出てきて思わず声が出たものだ。鯛の炊き込みご飯の度重なるおかわりを、嫌な顔一つせず持ってきてくれたあの店員さんだったと思う。
 先日、店の前を通りかかったが、開店直後にもかかわらず満員御礼。鎌倉歴史文化交流館との組み合わせで、いずれ訪れたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?