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サロン展 写真のノスタルジア 特別陳列 関東大震災のイメージ:3 /渋谷区立松濤美術館

承前

 「寫眞芸術社」の面々が歩き、そして撮った東京の街は、関東大震災によって遠い昔日の面影と化した。寫眞芸術社じたいも震災のあおりを受け、活動を停止してしまう。
 展示作品に、震災前の東京を撮ったものはけっして多くなかった。
 けれども、彼らの写真とともに太田黒元雄作詞・團伊玖磨作曲の小唄『東京小景』が流れる大広間と、そのかたわらにあって水を打ったように静かだった「関東大震災のイメージ」の小部屋との対比は、震災の「前」と「後」を思わせずにはいられないのだった。

 2本立ての「写真のノスタルジア」「関東大震災のイメージ」の結節点となる展示品が、ふたつある。
 ひとつは、掛札功による被災直後の東京のカット。この1枚が「関東大震災のイメージ」の小部屋の冒頭に掲げられ、同じく被災直後の東京を描いた洋画家・南薫造の作品へとつながっていく。
 薫造の絵は、水彩スケッチ7点、油彩2点。
 とくに水彩という画材がもたらす効果が手伝ってか、どれも、やわらかくあかるい画面。いわれなければ、震災の絵と気づけないかもしれない。

南薫造《大震災東京スケッチ 駿河台
1923年 渋谷区立松濤美術館
※一連のスケッチのなかでは、まだ震災らしい図。

 西洋絵画にはギリシャ・ローマの古代遺跡を意識した「廃墟画」というジャンルがあるが、大きなビルの残骸が映りこむものなどは、それによく似ているなと思った。
 被災後の緊迫感や絶望感よりも、画家の冷徹なまでに冷静な視線、造形的興味のほうをより強く感じたのであった。

 薫造の絵に乏しかった「緊迫感や絶望感」は、隣り合って展示されていた本展の最後の展示品——もうひとつの結節点によって、はからずも味わわされることとなる。
 それは、見渡す限りに折り重なった……遺体の絵はがきであった。
 写真家・山崎静村の遺族から受贈した一括資料のなかの1葉で、同じアングル、異なる品質の絵はがきが、東京都慰霊堂に10数葉現存している。それらと比べ、松濤美術館所蔵の絵はがきは、プリントの質が格段に高い。
 震災直後、遺体を写した写真は報道規制の対象とされ、その流通は固く取り締まられていた。こういった絵はがきは、規制をかいくぐって、ひそかに流通していたらしい。
 ラジオすらなく、新聞社も被災し機能していなかった状況下にあって、この種の絵はがきが果たすメディア性は大きかったとみえる。人から人へ、この絵はがきが渡っていった背景には、悲しみ、嘆き、驚き、野次馬根性、怖いもの見たさ……さまざまな感情があったのであろう。
 この「震災絵はがき」には謎が多いが、プリントの質の高さからすると、山崎の営んでいた写真館が一枚かんでいたのかもしれない。真相は藪の中だ。
 重苦しい感触を残して、展示会場を後にした。

 来場前は2本立ての別企画と思われた「写真のノスタルジア」「関東大震災のイメージ」は、しっかりとつながった1本の企画であった。公立美術館の実力を感じる。ともあれ、きょうも、いい展覧会を観た。



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