見出し画像

サロン展 写真のノスタルジア 特別陳列 関東大震災のイメージ:2 /渋谷区立松濤美術館

承前

 本展で取り上げられた「寫眞芸術社」の作家は、福原信三、大田黒元雄、掛札功、石田喜一郎の4人。このうち福原と大田黒は、写真家としてよりも本業で有名な人物だ。
 福原信三は資生堂の創業者の息子。株式会社資生堂の初代社長を務め、化粧品事業を推し進めた。現在も使用される「花椿マーク」の原画を描いた人物でもある。

・福原信三
 《作品名不詳〔三津海岸風景〕
 1926年 渋谷区立松濤美術館

 大田黒元雄は、日本における音楽評論の開拓者といわれている。荻窪の太田黒公園は自邸の跡。
 大田黒が写真家として作品を発表したのは、寫眞芸術社での若き日のみだった。

・大田黒元雄《作品名不詳〔漁〕
 1921年頃 渋谷区立松濤美術館

 残るメンバーの掛札、石田を含め、4人ともに二足の草鞋での活動であった。
 当時、カメラは高級品。掛札、石田はそれなりの高給取りだったようであるし、太田黒は実家が裕福で、勤め人になったことすらなかった。
 大正期の自由な空気が、そんな彼らをしてカメラを持たせ、街を歩かしめたのであろう。
 こういった点がちらついてしまうと、彼らの写真は、ややもすれば鼻につくくらいに都会的で小じゃれたものにみえてくるが……その感覚はきわめて繊細で、耽美的。モノクロームの美しい無声映画を観るかのようで、少なくともわたしは佳い印象をもった。

 彼らの美意識は、福原が写真の要諦として主張した「光と其諧調(そのかいちょう)」という言葉に集約される。

画面のよく調和された調子——光線の強弱に由って生ずる濃淡の調子——は写真の表現では第一義のものである

福原信三『光と其諧調』(寫眞芸術社 1923年)

 解説文を読んではっとさせられたのは、ここでいう彼らにとっての「写真」とは「=モノクロ」であったという、当たり前といえば当たり前のこと。福原の念頭に、カラー写真はなかった。
 色が(1色しか)ない——とすれば、表現は、陰影や濃淡といった面に多くを依ることになる。
 モチーフや構図なども、もちろん重要な要素であるはずだが、福原はそれらを押しのけて、陰影や濃淡がもたらす調和を「第一義」とまで断言しているのである。

 4人の作品を観ていると、彼らがいかに同じ美意識を共有し、突き詰めて具現化できていたかがよくわかる。
 門外漢の本音としては……キャプションを確認しないと、誰の作品か見分けがつかないほど。
 そんななかでも1人を選ぶとしたら、石田喜一郎の名を挙げたい。

 よく整理された画面に、程よいエッジの調子がつけられている。この座敷の写真など、小津映画のスチールをみるかのようではないか。
 ほかにも庭先の木戸や、代々木駅のホームを写したものがあり、同種の感想をいだいた。

 ——本展のタイトルは「写真のノスタルジア」であった。
 われわれは「ノスタルジー」の眼差しをもって、大正期に撮られた彼らの写真を観る。
 それはじつをいうと、本展の主旨・ねらいからは大きく外れている。企画者の問題意識は、大正時代に彼らじしんがいだき、また同時に抗ったノスタルジーの念なのだから。
 その点は重々承知しつつも……モノクロの画面から、焼きつけられた風景から、わたしはノスタルジーを抑えきれない。古きよき時代、都市生活者の清新な感性が、画面から横溢している気がしてやまないのである。
 そのように感じるのは、寫眞芸術社が関東大震災を機に消滅し、また彼らに写された風景も、おそらくはかなりが焼きつくされてしまったという事実を、知ってしまっているからこそでもあろうか。(つづく

葉桜に移行しかけ。Bunkamura裏

 ※来館の前日、小津の『東京の宿』をちょうど観たところだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?