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日本の風景を描く ―歌川広重から田渕俊夫まで―:4 /山種美術館

承前

 石田武《四季奥入瀬》(個人蔵)。
 四曲屏風×4隻で、四季折々の奥入瀬の流れを描いている。

 ちょうど90度にギュンと曲がった、ミズナラの木。下降線をたどったところを「なんとか持ち直した」といった風情の枝ぶりは、腕を曲げて力こぶを出しているさまにも似てパワーがみなぎる。
 作画上のデフォルメにしては、やりすぎであろう。それに他の3隻でも、突飛な表現は見受けられない。
 にわかに信じがたいが、この枝ぶりはきっと実在するのだ。自然はときに、人知を超えた働きをする。

 同じ東北の出身である筆者は、青森の奥入瀬渓流には、家族旅行で連れて行ってもらったことがある。この渓流のすぐ脇が車道なんだよな……などと(ほんとうに)余計なことを思い出すなどしつつ観ていたが、4隻めの《幻冬》の前に立って、はっとした。
 東北の冬山、そのものじゃないか。

 前回、横山操の《越路十景》に関して「新潟ご出身の方にとって、響くものがあるのでは」といったことを述べたが、わたしもまた、風景画をとおして自己の根差す土地を意識する体験ができたのだった。

 東山魁夷《白い壁》は、作者が子どもの頃に見た記憶のなかの情景を描いたもの。
 一見して薄暗い、闇の景とわかる。そんななかにあって、不気味に白さの引き立つ漆喰塗りの壁。東山新吉少年は、その白をじっと見つめることを好んだのだという。

 落ち着きのある色遣いや全体の雰囲気に、松本竣介の油彩画を思わせるところがある。よく知られた作とは趣を異にする、魁夷壮年の佳品であった。


 田渕俊夫《輪中の村》は、広重の浮世絵とともに本展のポスターを飾った作品。
 このふたつの取り合わせじたい、かなり思いきったもので、幅広く多種多様な展示内容になるであろうことが端的に示唆されていたのだ。

 上の解説にもあるように、濃尾平野の「輪中」の集落が積み重ねてきた時間、歩みといったものが本作には反映されているようだが、この画面だけを観て、そこまで汲みとるのは容易ではないだろう。タイトルを確認したとしても、むずかしいと思う。
 それよりも——絵になるからには、なにかわかりやすく美しい、特徴的なものの描きこまれた風景だろうと高を括って目を凝らすと、そこには田畑があり、ビニールハウスがあり、電柱や電線、鉄塔がある……
 このような、まったくもって現代日本にありふれた郊外の景観が絵画化されているという事実、それが整然とした美を構成している佇まいに、わたしは純粋な感興を催した。

 ——田渕俊夫《輪中の村》が出ていたのは展示の中盤だったけれど、展覧会名のサブタイトルに「歌川広重から田渕俊夫まで」と記されるだけあって、本作はどこか、この展示を総括しているかのようでもあった。
 美は、景色のなかに偏在している。そこが歌枕や観光地に限らずとも、画家が見て描こうとさえすれば、それは「風景画」になりうる。
 そんなことを、わたしはこの展示から受け取ったのだった。



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