つくりかけの塔、こわれかけた塔 ~古建築の転用について:番外編
(承前)
「つくりかけ」でなければ「こわれかけ」でもない。
タイトルからは外れてしまうものの、塔の造作に関するおもしろい事例をご紹介したい。広島は尾道のランドマーク・天寧寺三重塔だ。
海と坂と猫の町・尾道は、古刹が寄り集まる寺の町でもある。
なかでも、シンボル性や知名度からして双璧といえそうなのが、浄土寺と天寧寺。どちらも、塔を擁している。
話があちこちに飛んでしまい恐縮だが、城郭の場合、「尾張名古屋は城でもつ」と云われたように、天守という高層建築が権威の誇示を超え、城下の民にとって身近な存在と化すケースがままある。町のどこにいても、いつでも城(や領主)に見守られている安心感があるのだろう。このあたり、天守のない町で育ったわたしには肌感覚で理解できず、口惜しい。
※ここぞとばかりに、浜松城下で生まれ育った木下直之先生の『わたしの城下町』をおすすめ。
天守と同じく、当時としては稀な高層建築である仏塔にも、類似する性格があるはずだ。こちらの場合は為政者ではなく、みほとけに見守られているというのだから、心の拠り所としての機能はより強くなろう。
尾道には高い建物が海沿いくらいにしかなく、ふたつの塔は高台に立地することもあって、現在でも非常に目立つ存在となっている。過去においては、いわずもがなである。
誰が呼んだか、天寧寺三重塔は「海雲塔」という雅称をもっていて、こちらの名で呼ぶ人のほうが多い。
この堂々たる古塔を、なにゆえに取り上げるのか。
天寧寺の三重塔はもともと、五重塔だったからである。
室町前期の嘉慶2年(1388)に、五重塔として建立。時を経て老朽化が進み、元禄5年(1692)にはダメージの大きかった上の2層分が撤去、三重塔に改められた。
いわれてみれば、最上層の三角の大屋根が重しとなって下層を押し潰しているようで、窮屈な感じもする。
斜面にあり、遮るものはなにもない状況。潮風をもろに受けつづけた影響もあるだろうか。
ここで思い出されるのは、日本刀の「磨上(すりあ)げ」である。
刀身を手元の側から切り詰め、全体を短く仕立てなおす手法。「そんな乱暴な!」と思ってしまうものだが、刀剣には実用の側面も強い。そのときの持ち主の都合に合わせ、取り回しが利くようにリメイクしてあげるのだ。
磨上げの作を見かける機会は非常に多く、反り具合などから容易に見当がつけられる。先日行ってきた永青文庫「揃い踏み 細川の名刀たち」展にも複数本が出ていて、この連想につながった。
書画においても、損傷の激しい箇所をトリミングして体裁を改めることはめずらしくないが、同じようなことを建築でやってしまった例は稀有ではないだろうか。
※智積院障壁画のこちら。松の大樹は、別々の画面を上下で継ぎ合わせたもの。
そういえば、このシリーズで取り上げてきたなかにも、「上層部分の損傷が激しく、1層めだけが残った」というケースがいくつかあった。塔の2層め以上は、とくに傷みやすいものらしい。
「危険だから建てなおそう」「取り壊そう」というのが最も現実的な措置だろうが、不完全な状態でもなんとか活用しようとした人たちがいたわけである。
こういった事例に出合うたび、遺ってくれたこと、遺してくれた人への感謝の念が湧いてくる。
もはや視覚では捉えられない2層め、天寧寺の塔でいえば4層めと5層めは、わたしたちに多大な示唆を与えてくれる。
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