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仙厓のすべて:1 /出光美術館

 「わしゃ絵かきじゃなく坊さんなのじゃから、なにも最初からうまく描こうとしなくたってええじゃないか……」
 どうやら仙厓さんには、そのように吹っきれた瞬間があったらしい。

 展示の冒頭に出ていた若描きの布袋図は、狩野派の粉本そのまま。まっとうにきまじめに、衣文線の一本まできっちり習得してやろうと肩肘を張るさまがうかがえた。
 また、釈迦三尊と十六羅漢を描いた白描の仏画は、後年の絵からすればじつに「らしくない」極密・謹直の質をみせるものの、肝心のご本尊が、少し左に傾いている。
 「いろいろと工夫しながら絵をやってきたけれど、なにか違うぞ」
 どことなしの据わりの悪さを感じながら、自問自答を繰り返し、煮えたぎる思いをふつふつと熟成させていた時期の作だったのかもしれない。
 そんなことを、釈迦如来のわずかな傾斜から想像するのであった。

 みほとけの教えをかみ砕いて広く伝えるには、どうすればよいか……一介の僧・伝道者として、仙厓さんの出した答えは「笑い」であった。
 おかしさ・滑稽さ、かわいらしさ、親しみ。ポジティブな心の動きをひとつの入り口として、ほとけの教えに近づくきっかけとする。禅画は、そのためのメディアだった。

 仙厓さんの画賛には、画と賛が同じ一枚の紙の上で、ある種の落差、ギャップをもって同居しているものが多いように見受けられた。
 ゆるい絵に、存外に辛口な賛がついている。(仙厓さんにしては)かっちりめに描いた絵に、間の抜けた賛がついている。こういった、表裏一体のものである。
 仙厓さんの絵はほんとうにかわいいし、大胆すぎるかたちの省略やデフォルメぶりもあって、目を奪われてしまう。
 けれども、どんなにかわいい絵でも、そこには仏法思想や人生訓が、時にダブルミーニングのような多層的な解釈性をもたせつつ織り込まれている可能性を排除できないのである。

 ーー大きな目的のために、間口を広げる。
 仙厓さんのこうした姿勢には、少なからず共感するところがある。美術鑑賞の入り口に関しての話である。
 たとえば、「かわいい日本美術」のような敷居の下げ方に対してとやかく云う人もいるようだけれど、わたしとしては、ハードルを低く設定することは大歓迎。とっかかりはなんでもいいから、まずはこちら側の世界を覗きこんでみてほしいのだ。
 同時に、扉の前を素通りしようと、引き返そうと、その人の好きにすればよいとも思う。感性・嗜好は人それぞれなのだから。
 それでも、もしこちら側に来てくれるのならば、精いっぱいの歓待をするまで。ウェルカム。

 どんな扉から入ってきたかなど、わたしは気にも掛けない。
 本式の表玄関だけが、入り口ではない。
 勝手口から入ってきても、煙突からでも、窓ガラスを破っても、どこでもドアからでもいいじゃないか……そう言い切ることのできる勇気を、仙厓さんはくれるように思うのだ。(つづく


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