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仙厓のすべて:2 /出光美術館

承前

 仙厓さんは、絵に関してずぶの素人ではなく、一定以上の素養をもっていた。
 技術的な下地があってはじめて可能となるのが「崩し」であり、すなわち、わたしたちの知る「仙厓さん」像なのである。

 下図《七福神画賛》(出光美術館=今回の展示作品)と《龍虎図》(永青文庫)をご覧いただきたい。

仙厓「七福神画賛」(江戸時代)

 いやはや、すごいことになっている。
 七福神にしても龍虎にしても、おなじみの決まりきった画題だ。それなのにどうして、こんなにも自由に筆を走らせることができるのだろう?
 描かれたものがなんなのか、いちおう理解が可能なギリギリの域にとどめつつ、あとはぜんぶ崩してしまっている。再構成などという甘っちょろいものではない。もはや「破壊と創造」とでもいえようか。

 「えっ、この絵はほんとにこれでいいの……?」
 「よくここまでやるなあ」

 仙厓さんの展示を観ていると、思わずこぼれてしまう言葉である。2作品を前にしてまさにこの言葉を発したのだが、本展では同様の場面が多々あったのだった。

 ※「これでいいの?」の筆頭は、福岡市美術館・石村コレクションの《犬図》であろう


 芸事には「型に入りて型を出る」「守破離」という概念がある。
 画法の修養が仙厓さんの筆技をはぐくみ、崩しの基礎となったのは違いないけれど、これほどの崩し、力の抜けようの生まれ出でた理由は、また別のところにも求める必要があるのではないか。
 それはやはり……結局のところ、仙厓さんその人の人格・品性、人柄といったものが、そのまま造形化されて表れているということなのだろう。
 そういった着地点に帰するのはずるい、悪手だと思われるかもしれないけれど……それ以外に説明がつかない。少なくとも仙厓さんの絵は、他人が意図して真似できる性格のものではなかろう。できそうで、できない。

 仙厓さんのこのような作家性と共通したものをもつといえそうな人物が、何人か思い当たる。
 わたしのなかでは良寛さんや熊谷守一さんが、これにあたる。
 あくまで技術的な背景を踏まえつつも、超然とした境地に達している。その線に、狙いすましは見当たらない。
 彼らのように、作品とともに作者の人物像・生き方といったものを、まるごと含めて観てしまうような作家に対しては、親しみをこめて「さん」をつけて呼びたくなるもの。
 「仙厓さん」は、その代表選手だ。


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