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1909 現代名家百幅画会 /日本橋高島屋

 明治42年(1909)の冬、高島屋は「現代名家百幅画会」(以下「百幅画会」)を催した。
 当代きっての日本画家100名に、同じ寸法・異なる画題の絵を1点ずつ制作依頼。同じ裂(きれ)で表装した計100点を一堂に掛けまわすという大企画であった。「百人一首」ならぬ「百人一幅」。
 展示は成功裡に終わり、のちに高島屋美術部が設立されるきっかけとなった。社史においても、日本の美術史上においても重要な展覧会を回顧する本展。大阪・高島屋史料館からの巡回展である。

 リーフレットはこのようなデザインになっており「100幅が、114年の時を超えて再び並ぶのか!」と、大変わくわくした。
 おそらく、誰しもそう思うはずである。わたしは、本展のために高島屋が総力を注いで集めたのか、あるいは高島屋史料館に相当数が残っていたのか、といったあたりまで想像していた。
 裏側の説明を読んでみると……

近年ようやく4幅の存在が明らかになりました

 ほうほう、96点も……出ない!
 聞けば、2014年に竹内栖鳳《小心胆大》、2022年に岸米山《秋猿》、望月金鳳《月下遊狸》の3点が高島屋史料館に収蔵され、本展に出品されるという。さらに、もう1点見出された都路華香《春雨図》(個人蔵)は出品がかなわず、残る96点とともにパネルでの展示となるとのこと。
 早とちりを招きかねないポスター・リーフレットのデザインであるが、4点所在がわかっただけでもすごいのだ。入場無料でもある。ぜいたくをいうのはよそう。

 展示は、百幅画会の会場となった京都、大阪、東京の各会場のようす、新聞の展覧会評といった資料類からスタート。作家への制作依頼状も含まれていた。高島屋は依頼を出した側なのに、よく残っていたもんだなぁ。
 続いて100点のパネルを、当時と同じ雅号のイロハ順で紹介。新発見の4点はカラー、その他の作品はモノクロ・和綴じの図録からの転載となる。
 表具に関しては、4点のうち2点が百幅画会時のウブの状態だったため、その表具の写真が本紙と合成されていた。

※パネルは撮影可

 パネル1枚の横幅は、色紙の半分くらい。それでも、100幅も並ぶとたいそうなものである。
 各作品を観ていった。横山大観、菱田春草、川合玉堂、竹内栖鳳、富岡鉄斎、上村松園、鏑木清方……東京、京都を中心に、有名画家がずらり。人選に画題の調整と、たいへんだったろうなと思う。
 数えてみたところ、100名中67名の名前をわたしは認識していた。37名のなかには、本人は存じ上げないものの、雅号や作風から画系が推察できる者もいる。もちろんわたしの不勉強もあるのだが、その当時に大家や期待の若手であっても、現代にまで名が残っているとはかぎらないのだ。

 百幅画会実現のキーマンが、竹内栖鳳。京都の作家たちに声をかけ、みずからも1点を描いたほか、同年秋の第3回文展で話題を呼んだ《アレ夕立に》(高島屋史料館)を「番外」として特別出品している。
 《アレ夕立に》は、本展にも出品。
 栖鳳は「線」というよりは「面」の画家だといえるが、本作では群青の着物を描くに際し、極太の線を用いた面的な筆遣いによって、少ない手数で仕上げている。
 画中で最も広い表面積を占め、舞妓のしなやかな身体を形成している群青が、こんなにも大胆な筆で描かれているとは。驚かされた。
 舞姿の最も美しい一瞬をとらえた本作《アレ夕立に》を拝見できるだけでも、本展を訪れる価値はあるといえよう。

 隣の展示ケースには、100分の3幅である竹内栖鳳《小心胆大》、岸米山《秋猿》、望月金鳳《月下遊狸》が。うち2点は、先述のようにウブの表具である。
 残り96点が、これらと同じ表具のまま、巷間に埋もれているかもしないのだ。「この表具、よく覚えておこう」と目に焼きつけて、会場を後にした。



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