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光源氏のモデル? 藤原実方の墓:2

承前

国道39号線を脇道へ。国道沿いに大きな看板が出ているが、他に目印はこれといってない
小川に「実方橋」が架かっている。奥にみえるススキは「かたみの薄(すすき)」。この地を訪れた歌人・西行が、実方を思って詠んだ歌にちなんで植えられたもの
竹藪のなかへ
中央の、柵に囲われたところが実方の墓。まわりには、後世の人びとによる顕彰碑や歌碑が立つ。手前は西行の歌碑。ほとんどが近代の建立
実方の墓標。墓の右側にある

 西行がこの地を訪れたのは、まったくの偶然という。塚を見つけ由来を問うたところ、初めて実方の墓と知った西行は、たいそう驚いた。

朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置て
枯野の薄かたみにぞ見る

『山家集』

 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で、西行の足跡を追いかけている。西行が偶然やって来なければ、芭蕉がこの地を目指すことはなかった。
 ただし芭蕉は、実方の墓にたどり着けていない。

五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過る

『おくのほそ道』

 旅では時折あることで、わたしにも身に覚えがある。
 ここで一句。

笠島はいずこ五月のぬかり道

 ※「笠島」は地名。雨の日の「笠」とも重ねている。

 また近代には、正岡子規が『おくのほそ道』をたどる旅のなかで、やはりこの地を訪れている。
  「歌枕見て参れ」とのことで、みちのくにやってきた実方。みずからの死が、新たな歌枕を生むことになろうとは……因果なものだ。

 わたしが実方の墓を意識したきっかけは、白洲正子さんだった。白洲さんは西行の足跡を追うなかで、実方の墓を2度ほど訪ねている。

墓は参道のつき当りの山蔭に立っていたが、小さな塚を築いただけのもので、石塔のかけらすらなく、真中に御幣を立てて、注連縄がはりめぐらしてある姿は、まさしく「のちに語らんも言葉なき」風景のように思われた

白洲正子 「みちのくの旅」 『西行』

 柵の内側にカメラを向けるのは憚られたけれど、わたしが目にしたのは、白洲さんが書かれたそのままの光景であった。
 補足があるとすれば、「小さな塚」は土を丸く盛り上げた土饅頭で、手のひら大ほどの直径。白洲さんが「石塔のかけらすら」とおっしゃっているのは、古くは五輪塔が立っていたことを踏まえている。
 訪れたとき、御幣は真新しく、村の人がこの墓を大切に守り継いでいるさまがうかがえたのだった。

 墓から徒歩20分、車なら3分ほどの地に式内社・佐倍乃(さえの)神社がある。近世には笠島道祖神と呼ばれた古社だ。
 実方は、この社前を騎乗で通過してしまったばかりに道祖神の怒りに触れ、いま墓があるあたりで落馬。その傷がもとになって死去した。
 なにも知らずに通りすぎたというならば、致し方ないところもあろうが、実方は下馬を促した村人の諫言を無視して強行突破している。
 実方を「悲運の貴公子」的に説明する記述を多くみかけるが、行成の冠を落とした件といい、自業自得が過ぎて……俗というか、人間味を感じさせるではないか。

 あろうことかわたしは、佐倍乃神社の前を車で素通りして、実方の墓へと直行してしまった。
 つまり、愚かにも実方と同じ轍を踏んだわけだが、同乗者が以前、桜の写真を撮りに佐倍乃神社に来たことがあったといい、そのために神の不興を買わずに済んだのかもしれない。
 同じ山沿いの道には他にも、熊野三山を模した熊野三社、金蛇水神社といった古社が多く、大型の前方後円墳を含む古墳群も散在している。
 これらの地を交えつつ、いずれ、佐倍乃の神へもお参りに行きたいものだ。


実方の墓から徒歩すぐの、式内社・佐具叡(さぐえ)神社の跡地。明治末の神社合祀により佐倍乃神社の境内に移されたが、近年、中央の小さな社殿が改めてつくられた
さらに上にある磐座(いわくら)。江戸後期まで、佐具叡神社はこの場所にあった



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