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荘司 福 旅と写生・ドローイング:2 /神奈川県立近代美術館鎌倉別館

承前

次なる作品は、次なる取材から。

 本展は、作家のこの言葉から始まった。
 描き溜めたスケッチを寝かせ(あるいは放置して)、後日引っ張り出してきて本画に取りかかる……といったことを、福はしなかったそうだ。
 まったくの余談で次元の違う話だが、わたしなどは、観に行ってきた展覧会の感想を何件も未着手のままにしている。見習いたいものである。

 この言葉は逆もしかりで、取材ありきでの制作であったということもいえそうだ。
 どこかへ出かけて、なにかを得る。アトリエで構想を練り、絵として組み立てる。そうすることで、描き継いでいった。
 中国、インド、ネパール、カンボジア、アフガニスタン、エジプト、ケニア、タンザニア……略年譜から拾えるだけでも、これだけの国に行っている。とくに中国は、西域や内モンゴル自治区を含めてかなりの回数だ。

 国内に目を向けても、転勤族の家庭に生まれて幼少時より各地を転々としているし、後年も仙台から千葉、東京、神奈川と居住地を変えつつ、北海道から沖縄まで各地を訪ねている。
 わたしが惹かれていた石の絵も、そうしたなかで描かれたもの。
 この4つの石は、じつは、アノニマスな路傍の石ではない。まずは作品を、よく見てみよう。

《刻》(1985年 神奈川県立近代美術館
=以下、すべて同館蔵・撮影可)
(部分)

 刻まれた皺(しわ)、苔むした姿は、古武士か老僧のようだ。伝統的な皺法(しゅんぽう)の皺(しゅん)とも違う、岩石の生(なま)の皺。その皺や凹凸、規則性のみえない形状が、愚直に画面に落としこまれている。
 背景は白。やはり「ムラ」が効いていて、中空に浮くというより、しっかり地面に根ざした感を残している。そのせいか、枯山水の石庭を思わせるところがある。
 左の3つの石に関しても、自然そのままの石というより、石工によって上部が平たく加工されているようにみえる。建物の礎石だろうか。

 《刻》は、福井県の一乗谷での取材をもとにしている。
 4つの石は、谷あいに位置する城館や城下町のほうではなく、山上の一乗谷城の跡に残されているもの。
 前回ご紹介した岩手・東楽寺は、県庁所在地の盛岡市内といってもかなり奥まった場所にあるのだが、こちらの山城に至る行程も、ちょっとした登山。福が訪ねた頃の山道は、いまほど整備されていなかっただろう。フットワークの軽さ、健脚ぶりが偲ばれる。

 本画の構図を検討するための、習作が残されている。

 石のかたちに切り抜いた、4枚の紙片。端にみえる茶色は、セロテープの跡である。4枚をあれこれ動かし、微調整を重ねて、構図を決定したのだ。

 由来を知ったうえで、改めて石の絵を観る。《刻》というタイトルの荘重さが際立つ。
 朝倉氏の栄華と滅亡、その後の史跡としての長い年月。石は、すべてを見てきた。石には、その時間や記憶も刻まれているのだ。

 その名も《石》という作品は、《刻》に5年ほど先行する作。

《石》(1980年)

 背景は黒で塗りつぶされ、タイトルからもうかがえるように、石の即物性が目立っている。《刻》とは逆に「中空に浮く」感じがあり、なにかしらの文脈からは切り離して、石を石として見せたい意図があると受け取られる。
 たしかに、石というものは、見飽きることのない、ふしぎな魅力をもっている。
 なにか動物のかたちにみえるとか、身近な人の顔に似ているだとか、そういうことを抜きにしても、あるいは光る宝石じゃなくても、石はおもしろい。

 隣にいくつか並んでいた石のスケッチのひとつに《吉野川の石》があった。

《吉野川の石》(1977年)

 《石》の3年前に描かれたもので、かたちは似ているといえば似ている。別の角度からみれば、《石》のかたちになるのではないか(このスケッチも、とてもよい)。
 ただし……《石》の、周囲の風景や環境からかたくなに隔絶された描写をみると、なんらかの文脈や情緒を読み取ろうとするのは、野暮に思えてくる。石は石で、よい。この場合は、そうともいえよう。
 
 ——対象を深く見つめ、沈潜し、絵にした日本画家・荘司福。小規模ながら、魅力が詰まった密度の濃い展示空間であった。

《到春賦》(1987年)
沼は泥っぽい沼として、雪は粒子の集合体として、美化せずに描いている。こんな枝ぶり、他の画家はあえて描くだろうか?(この箇所のスケッチも展示されていた)



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