大雅と蕪村―文人画の大成者:3 /名古屋市博物館
(承前)
続いての章では、前章での「下郷家ー芭蕉ー蕪村」コネクションへの言及を受けて、尾張の俳壇と蕪村の関係を掘り下げていく。
俳人といっても、ひとり孤独に句を吟じていたばかりではない。師弟や派閥、ネットワークといった人的関係が、俳人としての活動の前提に存在していた。そういった輪の中心が、尾張名古屋だった。
会場では、名古屋の俳人仲間に自作の《奥の細道図巻》を売り込む蕪村の手紙や、名古屋に伝来したと考えられている《奥の細道図巻》(重要文化財、京都国立博物館)が展示。蕪村のもうひとつの作画レパートリーであった俳画の受容においても、名古屋という土地が重要な役割を果たしたことを示唆する。
さらに、蕪村に私淑し「近江蕪村」と呼ばれた横井金谷に話は及ぶ。金谷は、尾張俳壇でのつながりをきっかけに蕪村の絵に触れ、やがて蕪村そっくりの絵を描くようになった。
京博本《奥の細道図巻》の金谷による模写は、きわめて忠実。京博本の図様を、異なる画題を描く際に転用した例も出されており、金谷という人物により興味が沸いた。コピーや亜種でなく、金谷なりのよさが感じられたからだ。
展示資料・作品は、蕪村の書簡や略筆の俳画が中心。蕪村の俳画は「詩書画一致」の最たるもので、それに加えて豊かな人間関係・交流ぶりを含めた大局的な視点をもってはじめて太刀打ちできるものだなと痛感。
第6章「かがやく大雅、ほのめく蕪村」では、大雅・蕪村が画風を確立し、本領を発揮しはじめてから描かれた名品を集成。ふたりの極上の作を堪能できる章となっている(蕪村は晩成型のため、本章の出品作は《十宜図》よりも後の作品ということになる)。
これまでの「検証」主体の見せ方が、ここでは一転して「鑑賞」に切り替えられる。わたしもここまであえてドライ寄りの書き方をしてきたけれど、少しだけウェッティさを取り戻してみるとしたい。
本章の大雅から1点選ぶとしたら、《五君咏図》(川端康成旧蔵、個人蔵 ※ウェブに図版は見当たらず。京博の大雅展図録130ページ参照)。
「竹林の七賢」のうち、山を下りて出仕しなかった5人を描いた6幅対(題字を入れて6幅。もとは巻子装)で、うち2幅が展示に出ていた。
阮籍の像はかねてより思いを寄せるもので、タイミングよく、また会えたのがうれしかった。
人物の衣文線、詩文の文字とも、たおやかな伸びと肥痩をみせている。大雅のこの手の書風が、いちばんツボだ。筆のはらいなど観ていると、心がすーっと、ときめくのである……
図版で示すことができないのが悩ましいが、京博の大雅展をはじめ多くの図録や書籍に収載されているので、機会があればぜひ観てほしい。(つづく)
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