大雅と蕪村―文人画の大成者:1 /名古屋市博物館
名古屋市博物館「大雅と蕪村―文人画の大成者」への熱い期待を、2回にわたり長々と書きつらねたことがあった。
本懐を遂げたので、先日の投稿に負けない熱さで所感を述べていきたい。
あまたの名品とのご対面はもちろんのこと、整った章立て・論旨が本展の大きな魅力。そのため、まずは展覧会の構成に沿って(同時に、はしょれるところははしょって)、本展のダイジェストを試みようと思う。
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「大雅と蕪村」をその名に冠する展覧会ゆえ、いわずもがな、主役はふたりの合作《十便十宜図》(国宝、川端康成記念会)である。
《十便十宜図》は、もと東海道の鳴海宿(現在の名古屋市緑区)の豪商・下郷家の所蔵品だったことが判明している。制作のきっかけや注文主は明らかになっていないが、所蔵者・下郷家が有力な候補だ。
このあたりの話を軸とし、《十便十宜図》前後の日本の文人画史、ふたりの名品の3つから、本展は組み立てられている。
本場・中国の「文人画」の実物は、日本に渡来することがなかった。当時の日本人が目にすることができたのは、版本の画論・画譜や、亜流の模倣作程度。
序章では、そんなわずかな手がかりから日本の文人画の先駆をなす動きをした人物・彭城百川(さかきひゃくせん)を取り上げている。
俳・画の双方をよくした百川は蕪村のあこがれで、百川を真似て描いた蕪村の絵も残っている。画譜を活用する作画手法は、大雅にも影響を与えたという。
ふたりをつなぐ百川は、名古屋城下の出。このあたりからも、中京が文人画にとって非常に大事なエリアだと改めて感じる。
続いて、大雅・蕪村それぞれが《十便十宜図》以前に描いた作品を展示。
《十便十宜図》の時点で大雅49歳、蕪村56歳だが、画業のうえでは大雅はすでに円熟、蕪村はまだまだ試行錯誤の段階にあった。
早熟の大雅、晩成の蕪村。それぞれの対照的な作品が並ぶ。
この次の章が、本展の核といえる部分。いよいよ、《十便十宜図》の制作をめぐる問題に斬りこんでいく。(つづく)
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