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松平造酒助江戸在勤日記-武士の絵日記-:2 /神奈川県立歴史博物館

承前

 藩命により、現在の山形県鶴岡市から江戸へ上った松平造酒助(みきのすけ)。赴任先の住居と勤務地、さらには通勤ルートが、日記の記述から類推されている。

 造酒助の住んだ長屋は、現在のJR総武線・秋葉原駅と浅草橋駅の中間。いまは三井記念病院が立っている。土地勘のある地域で、親しみがわく。
 そこから造酒助は大手町の職場へ、毎日徒歩で通勤していた。歩けなくもない距離ではあるが、徒歩6分だった通勤が徒歩35分となってしまったら、愚痴のひとつも出よう。
 江戸の道のぬかるみ、風の強さにも、不満があった。【図1】は、嵐の中を往く造酒助一行。メモ書きがある。「道 こしあんのごとし」……

【図1】第16冊 元治元年(1864)11月19日

 愚痴の話から入ってしまったが、この造酒助、殊に仕事に関してはいたって真面目。造酒助の筆まめによって、当時の庄内藩の動き・内情をよく知ることができる。日記をつけるのも、単身赴任の身で怠惰を防ぐ自律のための取り組みともいう。
 それでも、職務に関する記述のはざまに、ときおり喜怒哀楽がぽろりと出てしまう。私的な記録ならではである。このあたり、現代の勤め人と同じような姿がたしかに感じられ、微笑ましいものだ。

【図2】第6冊 元治元年(1864)9月24日

 【図2】は、長らく取り組んできたプロジェクトが立ち消えとなり「大いに気ゆるみ、あんどいたし、おおくたびれ」する図。吹けば飛んでしまいそうな脱力感である。

【図3】第39冊 慶応元年(1865)閏5月5日

 ポスターにもなっている【図3】は、業務で忙殺の最中、煙管で一服……という図。
 絵日記は一日の終わり・床に就く前に綴られた。体験を文章にしたり、絵を描いたりすること自体が、職務のよい息抜きになっていたのだろう。煙管で一服するように、造酒助は書き、描きまくった。
 
 前回触れたように、造酒助は庄内藩の西洋砲術導入に功があった上級武士で、みずからも西洋銃を手にとった。
 ここまではよいのだが、仕事の枠を超えて、西洋式の銃に個人的に「どハマり」してしまった。射撃訓練場に毎日のように通いつめ、相次いで銃を購入している。

【図4】第45冊 慶応元年(1865)閏7月3日

 【図4】を描いた時点で、7挺を所持。購入額、しめて80両強。上級武士だからといって安い買い物とはいえなかった。

 入手した銃のコレクションは、誇らしげに自室に飾られた。
 【図5】はお正月に正装でお雑煮を食べる場面だが、このような平和な場面にも、銃器が映りこんでしまっている。
 異様といえば異様な光景でも、本人にとってはなにげない日常のひとコマになってしまっているのだから滑稽だ。

【図5】第21冊 元治2年(1865)正月1日

 【図6】では、そろばんを弾いてお土産の算段。壁にはコレクションがずらり。
 後ろの1挺でも我慢していれば、算段なぞ必要なかったであろうに……

【図6】第26冊 元治2年(1865)2月23日

 「趣味が高じて……」の逆を行くパターンであるが、仕事をきっかけに趣味が拡がるケースは、現代でもままあることだろう。江戸にもそういう人がいたのだ。(つづく

 

 ※展覧会よりも以前に公開されていた、造酒助の絵日記に関する動画。こちらもわかりやすい。


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