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村上華岳・山口薫・北大路魯山人展:1/何必館・京都現代美術館

  「何必」と書いて「かひつ」と読む。
  「何ぞ、必ずしも」——固定観念を疑い、問いかけようという姿勢が、ここには表されている。
 その行為の結晶といえるものが、八坂神社の門前にある「何必館・京都現代美術館」。“鑑賞空間の美” を銘打ち、作品はもちろん、建築、内装や順路にいたるまで、ひとつの美意識によってこだわりぬかれている。初めて上洛した高校生のときから、かよいつめてきた場所である。

 ※何必館ホームページ「鑑賞空間の美」

 美意識の持ち主にして創設者は、ギャラリストの梶川芳友さん。つまり業者さんであるものの、ここは純粋な美術館で、販売を目的とした展示空間とは異なる。店員がピタリと付いてくることはないし、値札も作品解説もない。
 そのかわりに、作品や作家、蒐集活動をめぐる梶川さんの随想や、作家自身の短い言葉を記したパネルがときおり挟まれ、コレクターの並々ならぬ熱意を伝える。空間として美しいと同時に、作品への向き合いに集中できるよう、細かな配慮がなされている。
 ロベール・ドアノーやアンリ・カルティエ=ブレッソンといった写真家の展示もあるけれど、年に一度はかならず日本画家の村上華岳(1888~1939)、洋画家の山口薫(1907~68)、そして北大路魯山人(1883~1959)の展覧を開催。この3人の作家が、梶川コレクションの核となっている。

 祇園祭・前祭の翌日。つい数時間前に練り歩いた道路を自動車が通過していくのを横目に、10時の開館を待って入館。
 1階のエントランスでは、パウル・クレー晩年のふしぎな油彩2点。3人展のつもりで来たから、思いがけず、よかった。ジャコモ・マンズー《枢機卿》のいるエレベーターホールから、順路に従って2階へ。

 床の間の設えがある2階は、村上華岳の部屋。
 入って右の壁面には軸物5幅。はりつめた空気の冬景、桃咲く春景の2幅の山水、そこに朝顔の図が加わって、季節の流れをなぞっていることに気づかされる。秋景の山水ともう1点、縦構図の上に山並み、下に松の枝ぶりを描いた作。いずれも水墨、一部に淡彩を差した小品である。
 この向かいの壁が広い床の間になっており、額装の書、そして山水の大幅(たいふく)2点が。
 横物の《武庫山春雲》(1936年=こちらのリンクに画像)は、おおらかな山容を、見上げるような角度から描く。
 武庫山は、兵庫県の六甲山の古名。六甲山系を背に、いだかれるようにして広がる芦屋や神戸の町を思い出すと、この絵に描かれる山容のおおらかなこと、仰角気味であること、さらに横長の画面に描きたくなること、すべてに合点がいく。
 華岳は神戸育ち。途中、京都で画技を身につけ画壇に出たものの、やがて芦屋、次いで神戸に転居。1939年、現在の神戸市内で没している。この絵は1936年の作。
 華岳はしばしば六甲山系を絵にしており、そのなかでも大きい。加えて、他の山水に比べて、線の奔放さ・執拗さが控えめで、どっしりと構えている。
 故郷の山に向けた優しいまなざしが感じられる、いい絵だと思った。

 ——それぞれの山水図には自題がついており、いつの景か把握できるのだが、絵から春夏秋冬を言い当てるのは、至難の業と思われる。それほどに、季節感はかすかなものだとわたしには感じられた。《武庫山春雲》などみても「そういわれれば、そうかな」というくらいではないだろうか。
 華岳の個性が極まり、季節感や情緒といったものを、凌駕してしまっている感は否めない。
 だがそれゆえに、その微細にして繊細な季節の香りをなんとか手繰り寄せようとすることもまた、鑑賞上の楽しみといえよう。(つづく

祇園祭・前祭から一夜明けた祇園の小径を抜け、何必館を目指した。もちろん、八坂さんにも御礼参り


 ※本展の公式ページ。《武庫山春雲》以外の作品画像が(全点ではないものの)観られます。


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